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店主:JUNKO
店長について・・・
ヨーロッパとカフェラテと美男子をこよなく愛する日本人女子です。
過去にあちこち旅をしてきましたが、このショップでは、特にご縁があり、現地に仲間がいる「ポルトガル・イタリア・トルコ」の商品をそろえることにしました。
仲間の協力を得て、現地情報もできるだけ多く発信していきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
JUNPERIALとは・・・
もともとショップ名は、ポルトガル・イタリア・トルコの共通点から付けたかったのですが、なかなか良いモノがみつけられませんでした。
しかしある日、自分にとって最大の共通点を発見しました。「3ヶ国とも自分の大好きな国であること!!」
そんなわけで、「自分の好きな国が集まった帝国」→「Junko帝国の店」→「Junko Imperial Shop」→「JUNPERIAL SHOP(ジュンペリアル ショップ)」となったのです。


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イラン・イラク戦争 奇跡の救出劇
〜日本・トルコ友情物語〜

− 高星輝次さん編 第17話〜 −

※第1話〜16話はこちらからご覧いただけます。
 


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<2014年3月23日 掲載>

第17話 『日本トルコ友好120周年 陸上追悼式・レセプション』
文:高星輝次さん

 2010年6月3日、エルトゥールル号殉難将士洋上追悼式典、アタチュルク像除幕式と参加させていただき、次は陸上追悼式が行われる「トルコ軍艦遭難慰霊碑」前にやって来ました。こここそ、台風で軍艦が座礁・爆発し何とか一命をとりとめた人たちが必至の思いで樫野崎灯台の燈台守に救助を求め、村人が総出で救助に当たり、犠牲になった兵士たちを弔った場所です。任務を終えて無事トルコに帰りたかっただろうにと、思いをはせるだけで胸がいっぱいになり、涙が込み上げてきました。

 午前中の洋上追悼式典が関係者による追悼式典に対し、陸上追悼式典は市民も参加しての色合いが強く、串本町の多くの人の手で120年間遭難された兵士たちの魂を慰めてきた歴史がうかがえる追悼式典でした。
 式典が始まるのを待っていると、2009年4月30日東京日比谷で取材を受けたNHK和歌山の福本さんと再会しました。福本さんは今日も一人カメラを担ぎ、ご自身でインタビューをしながらの取材をされていました。しばらく昨年の出会いを懐かしみ、そしてあの時「来年は串本で戦友会だ」といった冗談が現実になったことに対し、福本さんの報道のおかげとお礼を言った。福本さんは大変忙しそうなので長くはお話ができませんでしたが、宿泊先のホテルでのレセプションも取材されるとのこと、ホテルで会うこととしていったん別れました。

 式典では寛仁親王殿下のお言葉を彬子女王殿下が替わって述べられました。この中でも1985年テヘランでのトルコ航空による邦人救出に対するお礼が述べられました。再び三度の涙・涙の感激です。

 1890年エルトゥールル号が遭難して以来、串本のみなさまは慰霊碑を作り、毎月欠かさずきれいに清掃を行い、追悼の歌まであることをここに来て初めて知りました。

**********追 悼 歌***********
作詞:泉  丈吉
作曲:打垣内 正
1) 陽は落ちぬ 悲しび深し
   はるけきか 一つ星なる
 海鳴りの いよよ冴えきて
   白塔の ひらめきうつし
 堪えがたく いのる声とも

2) ああはるか 齢を経ぬるも
  うち仰ぐ 波の旺(さか)らば
 とつくにの もののふあわれ
  船甲羅(ふなごうら) うらみに呑みて
 使節艦(つかいぶね) とわに影なく

3) 樫野なる 熊野の浦へは
  老い老い(おいおい)し 漁人(すなとりびと)ら
 指さして 声をひそめる
  風くろく  暴(あ)れの夜なり
 ああわれら とわに語らめ

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 追悼歌を作り、歌い継ぎ、そして慰霊碑をいつも清掃している串本の皆様。そのたゆまぬ地道な行動が95年の年月を隔ててテヘランからの邦人救出となった訳であります。これにも感謝・感謝で本当に頭の下がる思いです。

 陸上追悼式も終わり、トルコ記念館を見学して串本ロイヤルホテルに戻ってきました。夕方7時より「日本-トルコ友好120周年記念レセプション」にも出席させていただきます。 レセプション会場では、エルトゥールル号の司令官オスマン・パシャの子孫にあたるオスマン・テキタシュさんにも会うことができました。エルトゥールル号の遭難後の遺品回収や引き上げをされた方の子孫の方にも会うことができました。
大変な歴史的出来事であったことをまた改めて知らされました。

 そして串本町の田嶋町長の挨拶にまたびっくりさせられました。最近になってエルトゥールル号乗組員の救助に当たった大島村の医者の手紙が発見されたという、その内容にはどうしてこの方たちはここまで立派なんだという驚きがありました。


***** 53名のカルテと一緒に見つかった医師3名が書いた文章(一部)*****

                           
(明治23年9月22日)

本日、閣下より薬價(やっか)・施術料の清算書を調成して進達すべき旨の
通牒(つうちょう)を本村役場より得たり。
然れども 不肖 素より薬價・施術料を請求するの念なく、
唯唯(ただただ)負傷者の惨憺(さんたん)を憫察(びんさつ)し、
ひたすら救助一途の惻隠新(そくいんしん)より拮きょ(きっきょ)
従事せし事 故 其の薬價治術料は 該遭難者へ義捐致し度 候間(そうろうま)
 此の段 宜しく御取り計らい下さりたく候也。

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 明治政府が大島の医者に対して、薬代や施術料を請求するように通知を出したものに対して、もともとそのようなものを請求するつもりは持っていない、ただただ負傷者の惨憺たる状況に憐れみを感じ、必死に救助したまでのこと。薬代・施術料があるならそれは遭難者への義援金としてもらえるよう取り計らっていただきたいというのである。
 失礼ながら、当時の状況では医師といえどもそれほど裕福ではなく、薬代などは治療を続けていくためにはどうしても必要な費用だったはず、そして明治政府が薬代・施術料を払うと言っているのであって、遭難者からいただくわけでもなく、何も心苦しいところはなく請求できるはずなのに・・・そんな金があるなら義援金にして遭難者のために使ってくれというのである。これもまたただただ感動である。
 テヘランにいたころ、イラン国営放送で日本の「赤ひげ」を放送したことがあって、このときN商社の現地スタッフ ダブード君からは「日本にはまだ赤ひげがいるのか?」と聞かれたことがあった。この串本の医者たちの行動でも知っていれば、日本の医者の博愛の心をもう少し語ってあげられたのにと、ふとダブード君を思い出したものでありました。

 一方NHK和歌山の福本記者は、レセプション会場でも汗だくになりながら、カメラマン・インタビューアの一人二役で頑張っていました。「レセプションが終わったら部屋に尋ねてもいいですか?ゆっくりお話ししましょう」とのことで、部屋番号を教え後で会う約束をした。沼田さんと私は、取材ではなくビールでも飲みながら世間話くらいに受け止めていましたが、部屋に現れた福本さんは、今度は音声さんを伴って現れました。そしてまたしばらくの取材となりました。せっかくの取材でもありますし、沼田さんと私は当時の体験やら、今日の記念行事の感想などを取材されました。取材も終わってカメラを止めたあと初めて知り合いらしい会話ができたように覚えています。

 串本滞在2日目はこうして朝から晩まで、驚きと感動の一日でした。

第18話につづく・・・


日本-トルコ友好120周年記念レセプションで
左から高星さん、オスマンパシャの子孫オスマンテキタシュさん、沼田さん





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<2014年6月1日 掲載>

【号外】追悼文『元伊藤忠商事イスタンブール支店長 森永 堯氏の訃報に接して』
文:高星輝次さん

 1985年3月19日、逃げ場を失った私たち日本人のためにトルコ共和国オザル首相に救援機の派遣を要請してくれた、元伊藤忠商事イスタンブール支店長の森永 堯氏が2014年5月22日お亡くなりになられました。

 森永氏は、時のトルコ首相のオザル氏と親交があったとはいえ、一民間企業の支店長が一国の首相に救援機の派遣要請などできるものかと大変悩まれたそうです。それでも逃げ場を失った邦人救出のためオザル首相に救援機の派遣を要請してくれました。そんな森永氏の働きのおかげさまで1985年のテヘランからの邦人215名のトルコエアーによる救出が行われました。

 2010年和歌山県串本町で開催された、日本-トルコ友好120周年記念行事で初めてお会いしました。1985年当時のことを講演して下さりました。
 私たちの命の恩人がまた一人お亡くなりになりました。きっと今頃は天国で、オザル大統領や、オルファン スヨルズ機長と再会してにこやかに笑っておられることでしょう。
 命の恩人の森永 堯氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

合掌


2010年9月イスタンブール アヤイリニ教会で開催された
「日本トルコ友情コンサート」であいさつする森永氏




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<2014年6月1日 掲載>

第18話 『日本トルコ友好120周年記念事業「テヘラン空港からの脱出」』
文:高星輝次さん

 2010年6月4日、日本トルコ友好120周年記念事業に参加させていただいて3日目となりました。5年ごとに行われるこの殉難将士慰霊式典は雨になることが多いと聞きましたが、今回はここまでずっと快晴に恵まれています。
 今日は朝のうちにレンタカーで名勝一枚岩や海中公園を観光させていただき、その後、昨夜に続いてNHK和歌山の取材を受けることとなっています。さらに沼田さんは夕方のパネルディスカッションに向けた打ち合わせが入り。私の方はもう一人のイラン戦友会の参加者を待って樫野崎を案内することとしていました。午後には3人で串本町田嶋町長を表敬訪問し、夕方にはパネルディスカッションに参加させていただきます。

 NHKの取材は快晴の樫野崎でトルコ記念館や慰霊碑の前で救助された当時の思い出を語る形で行われました。
 昼近くに到着したもう一人の参加者服部氏は感慨深く殉難将士の慰霊碑に両手を合わせていました。
 そして3人で合流して、串本町役場を訪ね田嶋町長を表敬訪問させていただきました。実に気さくにいろいろとお話をしていただけました。今回の日本トルコ友好120周年記念行事への招待に感謝し、改めて串本町ふるさと納税を納めさせていただきました。

 夕方になって串本町文化センターでは日本トルコ友好120周年シンポジウム「テヘランからの脱出」が開催されました。最初に17時45分から串本うしおコーラスグループによる合唱が行われました。

 続いて、基調講演として、当時伊藤忠商事イスタンブール支店長でトルコ共和国オザル首相と深い関係を持ち、邦人救出の救援機派遣に尽力していただいた森永堯氏がお話をされました。

 時のオザル首相と親交が厚いとはいえ一民間企業の支店長が一国の首相に対し邦人救出のための救援機の派遣を要請するようなことがありうるのだろうか。そもそも、地理的にトルコはイランに接しているとはいえ、危険を冒して日本人を救出する理由もないわけであった。

 それでも日本の本社からの要請に従いオザル首相に救援機の派遣を要請してくれた。意を決してオザル首相に電話をした森永氏に対して、オザル首相はしばらくの沈黙の後「わかった、心配するな。親友モリナーガさん。あとで連絡する」と言ってくれたという。それでもこの国では往々にして「メラーク エトメ(心配するな)」といっても結局うまくいかずにということは起こることを散々体験している森永氏は心配したという。その後やっとオザル首相から電話が入り「ハイレッティム(全てアレンジした)心配するなモリナーガさん」と言ってくれたという。

 このときテヘランには600人を超すトルコ人ビジネスマンがいたという。自国民には、はるばる3日もかかる陸路を車で避難させておいて、自国民より日本人の救出を優先させたのである。このようなことが日本でできるだろうか、日本で許されるだろうか、森永氏はトルコのマスコミの報道や野党の動きを警戒していたという。自国民を粗末に扱って日本人救出を優先させたオザル首相のスキャンダルにもなりかねない大英断であったからだ。ところがそのことは森永氏のまったくの杞憂で誰も問題にしなかったという。
 何という度量のある国民であろうか・・・・

 (森永氏の講演内容及び、氏の著書「トルコ世界一の親日国」明成社刊より引用)

 シンポジウムの第2部はパネルディスカッション「今、何故、映画エルトゥールル号なのか?」が開催された。 パネルディスカッションの冒頭、わがイラン戦友会代表の3名(沼田さん 服部さん、高星)は串本町の皆様に、皆様のお先祖様の尊い行いによって1985年に戦火のテヘランから助けていただいたことにお礼を述べさせていただいた。

 以下に代表して沼田さんが話した内容を記載しておく。

**************串本町の人々へのお礼の言葉**************

 ただいまご紹介をいただきましたイラン戦友会の服部、高星、沼田です。
 この場をお借りしまして皆様にお礼を述べさせていただきたいと思います。

 私達は今から25年前にイランに仕事で出張していた時、くしくもイラン・イラク戦争に巻き込まれ、窮地に立たされました。その時私達を助けてくれたのは日本ではなくトルコでした。どうしてトルコに縁もゆかりも無い私達をトルコの飛行機が命がけで助けてくれたのか、それは皆さんはよくご存知の1890年の「エルトゥールル号遭難事故」の時に串本町の人たちをはじめ、近隣の多くの人達がエルトゥールル号の乗組員に献身的な救助活動をしてあげたからなのです。

 当時、イランに取り残された私達日本人を何とか脱出させなければと、在イラン野村大使・大使館員、商社の方々などが懸命に関係先にお願いしたのですが、日本政府も、外国航空会社も受け付けてくれず、万策尽きた野村大使、大使館員、商社の方々、そしてトルコに駐在していた日本の商社の方々は最後の望みとトルコにお願いしてくれたのです。

 トルコ人達は100年近くも前のエルトゥールル号の時のことをよく覚えていて、串本町で受けた恩を返したいという人達の思いが100年の歳月を超えて1985年に私達を救ってくれたのです。
私達がこのエルトゥールル号の事を知ったのは今からわずか1年半前でした。それ以来、串本町の皆様や関係した方々に直接お礼を言いたいと思い続けてきましたが、この度、その機会をお与えいただき本当にありがとうございます。

 串本町の皆様、関係者の皆様が尽くした真心が私達を助けてくださいました。感謝しても感謝してもしきれないそんな気持ちです。この気持ちを言葉にするとなんとなくそっけのなくありふれた言葉しか思い浮かばなく、私達の気持ちを伝えきれないもどかしさを覚えますが、この言葉しか見つかりません。
 本当にありがとうございました。

***************************************

 お礼の言葉を述べる沼田さんはもちろん、服部氏も私も涙をこらえきれない状態でした。

 パネルディスカッションでは、この素晴らしい博愛の史実を広く後世に伝えたいという田嶋町長の思いと、それを受けて映画化を検討してくれている町長の大学時代の友人の田中光敏監督の熱い思いの伝わる内容となりました。

 最後のQ&Aセッションで一人の町民の方より意見が述べられました。
 「1985年のテヘランからのトルコエアーに依る邦人救出の話は散々聞かされてきました。その中でその人達は、エルトゥールル号の事を知っているのか?串本町に来たことはあるのか?どのように感じているのか?ずっと疑問に思っていました。今日、当事者の方の話が聞けたことは本当に良かったと思います」

 私達の不勉強により、命を助けていただいていながら串本町の皆様への感謝の気持ちを伝えるのまで25年も経過してしまったことを恥じ入るばかりでした。

 パネルディスカッションを終了し、3人+1人(私の妻)で串本町のおいしい魚料理で「イラン戦友会@串本」を開催させていただいたのは言うまでもありません。

 翌6月5日も快晴に恵まれレンタカーで、那智の滝、熊野古道などを観光させていただきながら、南紀白浜に向かいました。白浜について浜辺などを見学し、レンタカーも返却し空港のレストランでこの4日間を振り返り、ビールで乾杯しました。
 25年前のテヘランからの救出劇から、今回、救出のきっかけともなった串本町を訪れることができて、日本トルコ友好120周年記念事業にもたくさん参加させていただき、私達の心の中で何か大きな一区切りができたと感じたのは私だけでなく、沼田さん、服部さんも同じ思いであろう。

第19話につづく・・・


2010年6月 田嶋町長を表敬訪問したイラン戦友会の3人
(左から 高星さん、服部さん、田嶋町長、沼田さん)




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<2014年8月9日 掲載>

第19話 『日本トルコ友情チャリティコンサート』
文:高星輝次さん

 2010年6月2日から5日までの4日間、和歌山県串本町で開催された「日本トルコ友好120周年記念事業」に参加させていただき、私達のテヘランからの救出劇に対して大きな区切りをつけた気持ちになっていました。

 そんな中、6月17日、沼田さんからまたまた衝撃的なメールが入りました。2010年7月28日(水)東京港区のサントリーホールで「日本トルコ友情チャリティコンサート」というものが開催されることとなり、イラン戦友会には100席を割り当ててくれる。また戦友会の代表はステージで当時の様子を話して欲しいとのことでした。

 主催はエルトゥールル号追悼記念コンサート実行委員会となっているが、中心的役割をはたしているのは向山さんという、和歌山県で会社を経営する社長さんらしいという情報でした。向山さんは特に音楽を学んだわけではなく、ある時東京に出張にきていて帰りの新幹線から富士山を眺めていた時に、突然曲が浮かんできたという何とも神秘的な出来事から作曲を始めたアマチュア音楽家ということでした。作曲も指揮も向山さん自身がされるとのことでした。

日時:2010年7月28日(水)開場18:00 開演18:30 終了21:00
場所:東京港区赤坂1-13-1 サントリーホール
曲名:紀伊の国交響組曲第五楽章「友情」
   その1:九死に一生(映像付) その2:エルトゥールル号の軌跡
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:あわしま合唱団
主催:エルトゥールル号追悼記念コンサート実行委員会
後援:駐日トルコ共和国大使館、トルコ航空、トルコ海軍、ライオンズクラブ国際協会、メルシン市、アンカラ市、イスタンブール市
 というそうそうたるイベントである。

 イラン戦友会に声をかけ、会社の同僚・友人・知人に声をかけ、たくさんの方に来ていただきました。 その1の演奏が終わったところで、沼田さんと私がステージに上がり当時の話をさせていただきました。  3月12日未明のテヘラン空襲、私のアパートのわずか200mほどのところに着弾して、日干し煉瓦作りの建物は木端微塵に崩れ去ったこと。その日から始まったホテルの地下室住まい、そして毎夜の空襲警報と対空砲火の光と大音響。
 我々日本人を乗せてくれる外国の航空会社はなく途方に暮れる数日。そして「明日トルコエアーが載せてくれる」という情報を聞いた時の喜び、そしてこの救出劇の裏にはさかのぼること90年前のエルトゥールル号遭難と和歌山串本(樫野)の人達の救助活動・・・・
 話していると胸が熱くなります。今の自分がここにあるのもたくさんの人に助けられて今があるのだと思い知らされる出来事でした。

 コンサートの最後に、9月にトルコ メルシン・アンカラ・イスタンブールで開催される「日本トルコ友情チャリティコンサート」に招待される抽選会がありました。(コンサートを後援している、トルコエアーのプレゼントだったと思います)私はなぜかこのとき「私に当たる」と直感めいたものがひらめきました。そして抽選会・・  残念ながら幸運の女神は私の方をみて微笑まなかったようです。

 さあこれで私の日本トルコ友好120周年はいよいよ終了しました。
6月の串本町での記念事業への参加、そして今回のチャリティコンサート、とても良い体験をさせていただきました。またたくさんの人と知り合いになることができました。

 今回の一連のイベントに携わっている人たちを見ていると、本当のプロという人達ではなくて、それでもなみなみならない情熱をもって、誰かがやってくれるのを待つのではなくて仲間を集めて自分たちがやるというバイタリティあふれる人達ばかりでした。そんな人たちのと出会いも大変貴重な財産になりました。

第20話につづく・・・


コンサート当日 トルコエアーの関係者とイラン戦友会のメンバーで




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<2014年11月4日 掲載>

第20話 『日本・トルコ友情コンサート イスタンブールへ』
文:高星輝次さん

 2010年7月28日 東京 サントリーホールでの日本・トルコ友情コンサートに呼んでいただき参加しました。このコンサートの最後でトルコ行きのエアチケットが当たる抽選会がありました。「自分に当たる!」と直感めいたものがひらめいたのですが、実際には当たりませんでした。

 1985年3月にトルコエアーによって退路を断たれたテヘランからトルコエアーによって救出していただき、あれから25年の時が経過しました。今年は6月の和歌山県串本町での「日本・トルコ友好120周年記念事業」に参加させていただきました。そしてそのご縁で、向山さんたちが7月28日に開催した「日本・トルコ友情コンサート」にも参加させていただきました。
 コンサートに来ていただいた知り合いの皆様へのお礼も終わり、いよいよこれで「私のトルコ年」も終わったなと感じておりました。 ところが8月5日に沼田さんからまた驚きのメールが届きました。「日本・トルコ友情コンサート」を9月にトルコで開催をするので、イスタンブールでのコンサートにイラン戦友会の方を4名招待したいというものでした。 向山さんたちコンサートの御一行はアンカラ、メルシンでもコンサートを行い、最後にイスタンブールでコンサートをする予定になっていました。私達は9月25日に日本を出発し、27日にイスタンブールでのコンサートに参加し9月30日に帰国するというスケジュールでした。
 もうここまで来たら後には引けません、早速、会社の上司に5日間の休暇をお願いし、沼田さん夫婦と私たち夫婦でイスタンブールでのコンサートに参加させていただくこととしました。

 8月18日にさらにサプライズ情報がありました。
 イスタンブール日本総領事の林様から沼田さんにメールが入りました。
5月にトルコのTVで放映された、トルコエアーによって救出された日本人の映像(沼田さん)を見た、元トルコエアーの客室乗務員の方が、イスタンブールの日本領事館に対して、「自分はあの時のキャビンアテンダントをしていた者ですが、是非あの方にお会いしたい、自分が日本に会いに行くので連絡先を教えていただけないか?」と問い合わせをしてきたようです。 その後の連絡は途絶えていたようですが、我々がトルコを訪問するなら日本領事館で当時のトルコエアーの皆様との面会を領事館でセットしましょうという夢のような連絡が入りました。

 9月25日、この日は東京に台風が接近していました。沼田さんご夫婦は台風での交通機関の乱れを警戒して成田に前泊をされました。出発間近になって天候はかなり荒れてきました。それでも13:35定刻でトルコエアー TK51便はイスタンブールに向けて離陸しました。
 機内でおいしく料理をいただきワインを楽しんでいると、沼田さんから一冊の本が渡されました。「この本知ってる? 先日串本町でお会いした、元伊藤忠商事のイスタンブール支店長、森永さんが書かれた本だよ、機内で読み終えると思うから良かったら読んでみれば、結構泣けちゃうよ。」 本を手に取ると「トルコ 世界一の親日国」と書かれている。早速ページをめくる、・・・イラン イラク戦争もたけなわの1985年3月、イラン在留邦人達はイラク空軍機の空爆から逃れ、テヘランから脱出しようとしていたが、テヘラン空港に乗り入れていた各国の航空機への搭乗を拒否され、絶望の淵に立たされていた。そこに救いの女神が現れた。トルコからの救援機が飛来したのである。戦禍のテヘランから脱出の方法がなくなり、困りきっていたイラン在留邦人は、トルコ航空のお蔭で、テヘランから脱出し、無事イスタンブールに逃れることができた・・・はしがきを読み始めた瞬間から涙・涙である。

 飛行機の中で、涙・涙で一冊の本を読み終え、9月25日(月)19:37(現地時間)イスタンブール アタチュルクエアポートに到着。沼田さんはアタチュルクエアポートがきれいに改装されたというが、私の頭の中には25年前、テヘランから救出していただいた時のアタチュルク空港の記憶は残っていない。
 25年前、大変な混雑で混乱するテヘラン メヘラマバードエアポートからトルコエアーに乗り離陸した。離陸してしばらくすると、私達の乗っている飛行機の両翼にピタリと寄り添う戦闘機の姿を見る。護衛をしてくれているのか?これから攻撃されるのか?機内が震撼となる。 そしてしばらくして「トルコへようこそ」との機長からのアナウンスが入る。登場している日本人たちの歓声。アンカラに着陸、機内の日本人からいつもは着陸しても拍手などしない日本人たちが拍手と歓声で機長を始めクルーに感謝を表す・・・・ この後飛行機はアンカラを再び離陸しイスタンブールへ向かったわけだが、アンカラを離陸したところから私の記憶が飛んでいる。イスタンブールのホテルに入り、無事の脱出を祝ってワインで乾杯しているところまで記憶がない。平常心を保っていたつもりだが、やはり相当の恐怖とストレスから記憶が飛んだのではないかと思われる。

 空港からタクシーでイスタンブール新市街のインターコンチネンタルホテルに向かう。ガラタ橋の手前に差し掛かると丘の上でライトアップされているモスクや、水道橋が見えてくる。 またこうしてイスタンブールを尋ねることができたことを実感する。ホテルにチェックインをしてその日はガーデングリルで軽めの夕食をして眠る。ホテルの部屋からはボスポラス海峡に架かる橋がライトアップされて見えている。日本の作った第2ボスポラス橋(ファーティフ・スルタン・ムフメト橋が正式名称)だろうかとしばし眺める。

 翌日は多少雲の多い夜明け、ホテルのバイキングで朝食をいただく。チーズがおいしい。朝食後にホテルの近くを散歩していたら、日本・トルコ友情コンサートの大きなポスターがあちこちに貼られています。結構今回のイベントは注目されているようです。沼田さんご夫婦は今日は休息日にするとのことでしたので、私たち夫婦は日本から予約しておいたボスポラスクルーズの観光に出かけることとした。
 9時ちょうどに今日の観光ガイドをしてくれるアフメットさんがホテルに迎えに来てくれました。車で船に乗る旧市街側にガラタ橋を渡っていきました。このガラタ橋も25年目と変わらないイメージではありますが、25年前は実は浮き橋だったようです。そんなところにも25年の歳月を感じます。
 クルーズの出発まで少し時間があったので、船着き場の近くにある「エジプシャンバザール」を覗いて時間調整をして、いよいよ船に乗りました。

 ガイドのアフメットさんは、イスタンブール大学で日本語を学んだそうです。現在は別の職業についていますが、学んだ日本語を生かしてアルバイト的に観光ガイドをやっているそうです。日本語もかなり上手で、言葉ができるだけでなく日本の歴史なども相当勉強されています。
 クルーズと言っても、日常交通の乗合船ですのであちこちの船着き場に停船しながら、ボスポラス海峡を遡っていきます。船に乗ってしばらくすると、アフメットさんがチャイを買ってきてくれました。通路を挟んだ反対側にいた老夫婦のご婦人が「日本人ですか?」と尋ねてきて、私達にシュミットというトルコのパンのようなものを進めてくれました。なんか日本人にとってはとてもうれしい環境です。パンを食べたり、ヨーグルトを食べたりしながらのんびり周りを眺めながらの舟遊びです。  やがて船は、イギリスが建設した第一ボスポラス橋をくぐり、次に日本が建設した第二ボスポラス橋に近づいてきました。アフメットさんがいうのには、「第一ボスポラス橋は風が吹くとすぐに通行止めになってしまうが、第二ボスポラス橋はめったに通行止めにならない、日本の技術はすごい」と賞賛してくれました。

 第一ボスポラス橋は1973年完成、第二ボスポラス橋は1988年の完成ですから15年間の時間差がありますので、橋を作る技術の進歩もあってのことでしょうが、「日本が作った橋の方が素晴らしい」と言われるのは、自分が関係したわけでもないのに、日本人としては気持ちの良いものです。  2時間ほどで終着のサルイエルに着き船を下りて、アフメットさんおすすめのレストランで昼食です。屋外のテラスで魚がメインの料理をいただき、ビールで乾杯です。メインの魚はすずきを焼いたものでしたが、アフメットさん「すずき」という魚の日本語まで知っています。驚きました。昼食をいただいているとお祈りの時間を知らせるナザーンが聞こえてきました。イスラムの国にきていることを実感できます。
 サルイエルから車でホテルまで送ってもらい、午後は疲れたという妻にはホテルで休んでもらい、沼田さん夫妻とホテルの近くのドルマバフチャ宮殿を見学に行きました。 ドルマバフチェ宮殿は、1843年スルタン・アブドゥルメジト?世が建てた宮殿ですが、近代トルコの父といわれる初代大統領アタチュルクが執務中に亡くなった場所でもあります。 荘厳で巨大な建物、時計台、イギリス ビクトリア女王から贈られたという巨大なシャンデリアなどが見学できます。
 夕方は二組の夫婦で街に出て、トルコ料理の夕食をいただきました。こうして3度目のイスタンブールの旅は、気持ち良くゆったりとはじまりました。 世界一の親日国トルコならではの旅かもしれません。

第21話につづく・・・


ボスポラスクルーズが終わり、サルイエルの
みなとのレストランで昼食中の高星夫婦




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<2015年2月22日 掲載>

第21話 『日本・トルコ友情コンサート アヤイリニ教会へ』
文:高星輝次さん

 2010年9月25日夕方にイスタンブールに到着し、26日は終日フリーで午前中は私たち夫婦でボスポラスクルーズを楽しみました。そして午後はドルマバフチェ宮殿を見せていただき、夕方は2組の夫婦で街に出てトルコ料理を楽しませていただきました。

 9月27日、今日は日本から予約しておいたトルコ人ガイドによる旧市街を中心とした観光をさせていただき、夕方はいよいよこの旅の目的である「日本・トルコ友情コンサート」に出かけます。
 朝はホテルの窓からボスポラス海峡越しに昇る朝日がとてもきれいでした。しばしホテルの周辺を散歩し朝食をいただき、9時になると予定通りガイドがホテルに迎えに来てくれました。昨日といい今日といいガイドの方は時間通りにきっちりと来てくれるのがなにより安心です。今日のガイドさんはプザイさんという女性の方です。

 最初にテオドシウスのオベリスクを見て次にブルーモスクへ向かいます。ブルーモスクの中でもプザイさんは親切に観光ガイドをしてくれます。ブルーモスクの青色のタイルにしばし見とれて、次は地下宮殿に向かいました。1500年近く前の建設とか、こんなすごい技術を持っていたことに感動します。地下宮殿の中の柱の土台にメドゥーサの首がさかさまの状態で使われていることに対して、ガイドのプザイさんは「いろいろなガイドがいろいろなことを言いますが、ここは地下貯水池でよもや後世の人に見学されるとは思っておらず、ただ建築材料としてさかさまの方が座りが良く好都合だっただけです」と言っていました。なかなか合理的な見解でなんとなく納得してしまい、次にバザールへ向かいました。

 バザール入り口の有料トイレで用をすまして、バザールへ入場です。特に買う予定のものもなく、ぶらぶらと見て回ります。金製品などはやはりきれいです。バザールのメインの通りから少し離れたところに、バザールの裏側を見ることができる小さな路地があったので入ってみました。そこには年配の方が4名ほどおしゃべりをしていて、「建物の裏側の写真を撮ってもいいか?」と聞くと、どうぞご自由にという感じでした。写真を撮っていると「日本人か?」と聞いてきました。「そうだ」と答えると、こっちに来て座れ、という話になり、チャイをごちそうしてくれました。お金を払おうとするとそれを押しとどめおごってくれました。日本人のところにトルコ人が来てもこんなもてなしはしてくれないよなと思いつつ、チャイをごちそうになりました。

 半日観光を終了し、昼にはホテルにいったん戻りました。そのあとタクシーで再び旧市街に渡り、エジプシャンバザールでお土産ものを探しました。エジプシャンバザールは香辛料やトルコのお菓子などがたくさんあります。歩いていると「社長 安いよ 買って行って」などと声をかけてくる店員さんがたくさんいます。きっと日本人観光客が教えた日本語なのでしょうが、あまり変な日本語は教えないでほしいですね。

 エジプシャンバザールをしばし楽しんだあと、軽くファーストフードの店でコーラとサンドイッチで昼食です。そしていったんホテルに戻りましたが、コンサートは夜の開催で、夕方からはあわただしくなるだろうということで、ホテルの近くのレストランでもう一度食事をすることとしました。ドネルケバーブ、ターキッシピザなどをいただきました。お店に入るとき「ビールは飲めるか?」と聞いたら、「もちろん」と言っていたのに注文したらどうも隣のレストランへ行って買ってきてくれた模様でした。親切というか、いい加減というかまあおいしいビールが飲めたので良かったとしておきましょう。

 夕方になり、ホテルからコンサートの行われるアヤイリニ教会へ向かいます。アヤイリニ教会はトプカプ宮殿の中にあります。タクシーはかなり手前で降りることになりました。地図を頼りに歩いていると一人のトルコ人青年が近づいてきました。ちょっと警戒しながら彼の話を聞くとまた「日本人か?」と聞いてきました。「どこへ行くのか?」と聞かれアヤイリニ教会と答えると「OK」と言って先に立って道案内を始めてくれました。本当に彼について行って良いものかどうか、多少の不安を感じながらもついて行くときちんとアヤイリニ教会の前まで案内してくれました。そして別れ際に「先ほどの場所でお土産を売る店をやっているので良かったら帰りに寄ってください」と言って去っていきました。またトルコに対する好感度が上がってしまいました。

 アヤイリニ教会は外観はかなりどっしりとした形で建てられています。中に入ると床面は土間状態で全体に洞窟のようなイメージです。これも歴史を感じさせます。そしてステージはドームのような形になっていて正面に十字架が掘られています。

 向山さんたちのリハーサルを見させていただきながらコンサートの始まるのを待ちます。会場はほぼ埋め尽くされた状態でコンサートが始まりました。映像に合わせるように向山さんの音楽が流れます。テヘランで日本人が救出されるシーンになるとやはり涙がこらえられません。
 沼田さんと私は泣きながら、そして二人の妻はそんな夫をいたわりつつコンサートが進んでいきます。

 そして1部と2部の幕の間が私たちの出番です。日本語の堪能は司会のハリトさんがトルコ語に通訳をしてくれます。「1985年3月12日、自分が住んでいたアパートのすぐ近くが爆撃され、その日を境に国外への脱出を図るものの航空券は手に入らず、本当に明日の命が分からない環境の中からトルコエアーによって救出していただきました。この恩は一生忘れませんし、今日こうしてトルコの皆様の前でそのお礼を言えることは本当に幸せです」というようなあいさつをさせていただきました。

 そんなあいさつをしていると、観客席の方からステージに近づいてくる老人がありました。ステージの上と下でハリトさんと話をしていましたが、そのうちステージに上がってきました。どうしたのかと思っていると、この人が、あの時のトルコエアーの機長だというのです。キャビンアテンダントの方も数名ステージに上がってきました。観客席は大いに盛り上がりました。私達はもともと明日会うことになっていたので明日の再開を約束して別れました。

 無事2部のコンサートも終了し私たちの今回の旅の主目的は終了しました。コンサートは大変な人気で急きょ屋外にもモニターテレビを用意し会場に入りきれない人達がテレビで見ているほどでした。 街中でもトルコの方々に親切にしていただき、コンサート会場でも暖かい拍手に包まれとても幸福な一日でした。和歌山から来られたコーラスの皆様と実行委員会の皆様と一緒に夕食をいただき、バスでホテルに帰り興奮冷めやらぬ状態で3日目の夜は更けていきました。

第22話につづく・・・


コンサート会場で、テヘランから救出されたことにお礼を述べる高星さん
左は沼田さん、右は司会のハリトさん




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<2015年5月5日 掲載>

第22話 『日本・トルコ友情コンサート 命の恩人との再会』
文:高星輝次さん

 2010年9月28日、トルコ滞在も今日が最後です。明るくなっていく東の空をホテルの窓から眺めています。徐々にボスポラス海峡が浮かんできます。ボスポラス橋のイルミネーションがまだ光っています。そして東の空がどんどん明るくなっていき、ボスポラス海峡を挟んだアジア側から朝日が昇ってきました。
 今日もとても気持ちの良い快晴のイスタンブールです。

 朝日の差し込む明るいレストランで朝食をいただきます。今日は25年前に私たちをテヘランから救助してくれたトルコエアーの皆さんとの再会の日です。みなさんと会うのは昼ですので、朝食が終わったら散歩に出かけました。

 宿泊しているイスタンブールインターコンチネンタルホテルからは徒歩でタクシム広場に行くことができます。早朝の気持ちの良い空気の中、タクシム広場からイスティクラル通りを歩いていきます。通りの真中を路面電車トラムが走っていきます。会社へ出勤する人、登校する生徒など徐々に賑やかになってくる通りをのんびりぶらぶらと歩いているのは何とも贅沢です。まだ朝が早いのに、サンドイッチを売る店や、文房具の店、スカーフの店などがオープンしています。街角では小さなワゴンのようなものでシミットを売る店もあります。シミットとチャイで2トルコリラです。朝食にする人もいるようです。
 朝の散歩からホテルに戻り、さあいよいよイスタンブール日本領事公邸でトルコエアーの皆さんと再会です。

 トルコエアーの当時の関係者と会えることになったいきさつは、1985年戦火のテヘランからトルコエアーによって救助された後、一緒に逃げ回った商社の皆さんと「戦友会」なる会を立ち上げたまにはあって旧交を温める飲み会を開催していました。そのころ日本・トルコ友好120周年に向けて取材を続けていた、NHK和歌山の記者の方に私たちの戦友会の存在を知られました。2010年5月の日比谷公園での会をNHK和歌山の取材を受けました。
 NHKとトルコ国営放送は技術提携をしている関係にあるようで、NHKの映像はたびたびトルコでも放映されているようです。私たち戦友会の様子を伝える映像がトルコで放映されました。このとき1985年3月19日に日本人救出のためテヘランへの救援機に乗務した客室乗務員の方が見ていました。
 そしてその方が、イスタンブール日本領事館に対して、TVに出ていた当時の方にお会いしたい。日本へ尋ねていっても良いので連絡先を教えてくれないかと問い合わせをしてきました。日本領事館から沼田さんに連絡先紹介の確認が入り、沼田さんと私はもし来日されることになったらどのようにおもてなしをするかなどと考えていました。
 そのうち今回のイスタンブールでの友情コンサートに同行させていただくこととなり、「それならばイスタンブールの日本領事館で皆さんと会えるように取り計らいましょう」という暖かいご配慮をいただき再会が決定しました。

 こうしてみると人生というものは、実に不安定な偶然によって支配されていることがよくわかります。「戦友会」なる単なる飲み会のような会をNHK和歌山の方が取材しなければ、こんなことにはならなかったし、その映像をたまたま当時のトルコエアーの客室乗務員の方が見なければこんなことにはならなかったし、客室乗務員の方が日本領事館に問い合わせなかったらこんなことにはならなかったし、そもそも戦争中のテヘランに赴任しなければこのようなことは起きなかったし、そんな自分の選択とは無縁の偶然の成り行きがそれぞれの人の生涯を決めていくものなのですね。

 日本領事館へはホテルからタクシーで向かいます。閑静な住宅街のような街の中に領事館はありました。領事夫妻が私たちを迎えてくれました。しばらく領事公邸でくつろがせていただきました。そのうち伊藤忠商事の元イスタンブール支店長森永さんが来られました。この人こそ、当時のトルコのオザル首相に邦人救出のための救援機の派遣を直接お願いしてくれた方です。森永さんは当時第2ボスポラス橋(ファーティフ・スルタン・ムフメト橋が正式名称)の入札獲得のため大変忙しい毎日を送られていたようです。そんな中、いわば余計な仕事(テヘランの邦人救出)が持ち上がったわけです。そして第2ボスポラス橋の工事を落札したあとは、橋の工事を見守ることにできるように、日本領事館のそばに居を構えて工事を進捗させたとのことです。
 領事館のベランダに立ち、第2ボスポラス橋を見つめながら当時の話を伺いました。

 そしてついに25年の時間を隔てて、命の恩人との再会となりました。当時のトルコ航空のユルマズ オラル総裁、救援機のオルファンスヨルズ機長、機関エンジニアのコライ ギョクベルク氏、そして私たちに会いたいと領事にお願いしてくれた、客室乗務員のナーザン ユルマズさん、ミュゲ チェレビさん アイシェ オザルブさん、デニス ジャンスズさん、またその家族の皆様、アリ オズデミル副操縦士の家族の皆さんが集まってくれました。

 25年ぶりの再会とはいえ面識があるわけではなく、助けた人と助けられた人という関係です。それでもオラル総裁は旧知の友人に出も会うように私たちにハグをしてくれました。スヨルズ機長はやわらかで温かい手で握手をしてくれました。林領事の奥様の料理をいただきながら当時の話に盛り上がります。オラル総裁は、「オザル首相の命令の元、最強のチームができたと」言っておりました。私は長い間疑問に思っていた救援機で脱出するときに、離陸してしばらくして救援機の両翼にピッタリと付いてきたジェット戦闘機の存在についてスヨルズ機長に尋ねた。すると「あれは我々を守るためのトルコの空軍機だったと」驚きの答えを返してくれた。イラン領空を侵犯してトルコ空軍が私たちの搭乗した旅客機を警護してくれたというのです。
 そして客室乗務員だったミュゲ チョレビさんは自分の娘さんを私たちに紹介してくれた。「あの時私のおなかの中にいた子よ」という。「とても危険な任務であり、業務命令で乗務させることはできない。自分から名乗りを上げてほしい」という総裁の呼びかけに全員の機長が手を挙げたという、そして大変多くの客室乗務員の皆様も手を挙げたという。妊娠初期のとても不安定な大切な時期に、妊娠を夫にも、親にも言わず日本人救出のための救援機に乗務することを選択したという信じられないようなことをしてくれたのでした。

 どうしてトルコの人達はここまでしてくれたのでしょうか?それは95年前のエルトゥールル号の遭難に対して串本樫野のみなさんが必至の救援をしたことも影響しているでしょうが、それだけではなく、「困った人を一人にはしない」というトルコの皆さんのやさしい道徳心・文化によるものではないでしょうか。日本人だから助けたのではなく、「困っている人がいたから助けてくれた」のではないでしょうか。日本人救出のために尽力してくれた方々への感謝の気持ちとは別に、道徳心というか博愛の精神というかややもすると日本人が忘れかけている精神がトルコには今も生きているのではと感じさせられました。

 楽しい語らいの時は過ぎていき、お別れの時間がきました。客室乗務員のナーザン ユルマズさんはこの後私たちを自宅に招待する準備をしてくれていました。今日の夕方の便で帰国することを告げると大変残念そうな顔をしていました。
 皆様を見送り、大変お世話になった林領事夫妻にお礼を述べ領事公邸を後にしました。
 帰りの飛行機も順調で、大変満ち足りた気分で機内ではラクーの味を楽しみながら、5日間のイスタンブールへの旅を終えることができました。

 後日談ですが、イスタンブール領事館で沢山のトルコエアーの関係者にお会いできたのは、2006年春の叙勲で小泉純一郎首相がテヘランから邦人救出をしてくれたことに対してトルコエアーの13人に勲章を送るということがあり、このため外務省・領事館などが名簿や連絡先などを調べていた経緯があり、多くの方と連絡が取れて集まっていただけたということでした。
 本当に感謝感謝です。

23話につづく・・・


当時のトルコ航空客室乗務員のナーザンさんと
彼女がテレビで沼田さんを知ったことがこの再会のきっかけに


日本領事館にて命の恩人たちと記念撮影




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<2015年10月10日 掲載>

第23話 『東日本大震災とトルコの友情』
文:高星輝次さん

 2010年9月向山さんが開催したイスタンブールでのコンサートに参加させていただき、25年前にテヘランから私たちを救出してくれた、当時のトルコエアーの関係者の皆様と会うことができ、大変幸せな旅行をさせていただきました。
 トルコから戻ってきて、11月には報告を兼ねて「イラン戦友会」を久々に開催しました。お互い25年の時の流れを感じる年齢になっておりました。
 2011年2月には、この手記を書かせていただくきっかけとなったJUNPERIAL SHOPの店長さんとの出会いがありました。店長さんが開催する写真展に沼田さん私も写真を展示させていただきました。その後、店長さんからネットショップにコーナーを作っていただき当時の体験などを書かせていただくこととなりました。

 そして2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。巨大地震そして未曽有の津波、発生が昼間ということもあり、津波にさらわれていく映像がそのままTVで中継され日本中、世界中の人達がその惨状を見ることとなりました。
 この地震の時、私の息子が1か月間のトルコ周遊の旅に出ていました。学生の気楽さでドミトリーに宿泊し、延々とバスに乗ってトルコを周っておりました。そしてこの大地震のニュースをトルコのTVで見ました。周囲にいたトルコ人たちには「お前の家は大丈夫か?」といろいろ声をかけていただいたそうです。これもトルコ人のやさしさの表れではないでしょうか。
 アメリカ軍の「友達作戦」がメディアでは良く取り上げられましたが、実は真っ先に救援に駆けつけたのはトルコだったし、原子力発電所の事故によって放射能汚染が広がるなか、最後まで被災地にとどまって救援活動をしたのもトルコだったと後日何らかの報道で知らされました。やはり偉大なる親日国、困っている人を一人にしない文化の国トルコだと感じました。

 自称アマチュア音楽家の向山さんも東日本大震災を受けて早速動かれたようです。もともと計画していたコンサートを「チャリティコンサート」に変更し3月28日に和歌山で開催しました。ここにはテヘランからの邦人救出の時機長を務めた、オルファン・スヨルズ機長夫妻も来日してくれて、沼田さんもコンサートに駆けつけたと伺っております。
 そして向山さんのチャリティコンサートは2011年8月にも新国立劇場で開催されました。

 2011年10月23日に今度はトルコ東部地震が発生する。この地震の余震では日本人ボランティアが倒壊した建物によって死亡するという不幸な事故も発生しました。このときもトルコの人達はこのボランティアの犠牲に多くの方が涙を流してくれました。

 1890年のエルトゥールル号の遭難事故、そして1985年のテヘランからの邦人救出という友好の絆となるような歴史的出来事を経験してきた日本とトルコは、奇しくも2011年にお互い大地震に見舞われる形となりました。運命的なものを感じずにはいられません。

第24話につづく・・・


2011年8月のチャリティコンサートの打ち上げで
オルファンスヨルズ機長夫妻と沼田・高星夫婦の記念写真




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<2016年8月21日 掲載>

第24話 『トルコ エルドアン首相と面会』
文:高星輝次さん

 2012年6月には和歌山県の企業経営者を中心として立ち上げた「NPO法人 エルトゥールルが世界を救う」が結成されました。当面の活動はエルトゥールル号の事件の映画化を支援し、この「ええはなし」を世界に広めていこうというものです。 以下はNPO法人浦会長のHPでのご挨拶分(発足主意書といえると思います)

 「私共「特定非営利活動法人 エルトゥールルが世界を救う」は世界平和に寄与することを目的として、2012年6月に和歌山市にて設立されました。

 1890年9月、トルコ海軍軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本沖で遭難。このとき大島島民が生存者を決死で救出し手厚い看護をしました。これが日本とトルコの友好関係の始まりになっています。 そして1985年、イラン・イラク戦争真っ只中、テヘランの空港に取り残された日本人を土壇場でトルコ航空機が救出してくれました。これら2つのエピソードは時空と民族を超えた相互協力の精神を物語っています。

 当法人はこれら2つの物語をより多くの人に知ってもらうことにより、次の2つの観点から世界平和に貢献しようと考えます。
(1) 人々の心に連帯と平和への想いを醸成する
(2) 日本国とトルコ共和国の友好を育み、アジアから世界平和に資する

 さてこれらの素晴らしいエピソードですが、映画化することにより周知活動が加速します。現在トルコと日本が共同で映画化するプロジェクトが進行しております。当法人としましても、映画化を実現すべく協力することになっております。
 是非とも当NPOの会員に名を連ねてください。エルトゥールル号を基点とする世界平和を一緒に実現しましょう。会員になるには生涯会費を1回だけ納入して戴くだけです。ご自分のご都合にあわせ、生涯会費の金額を決めてください。
 「特定非営利活動法人 エルトゥールルが世界を救う」の趣旨をご理解いただきと会員として名を連ねて頂きますよう切にお願い申しあげる次第でございます。日本から、そしてアジアから世界平和を発信していきましょう。」

 このNPO法人に沼田さんが入会し特別顧問になられました。私も沼田さんに紹介されて、2013年2月に入会させていただきました。(そんなご縁もあり、この拙い文章をNPO法人のHPに掲載していただくことにもなりました)

 そして2013年の12月、いつもサプライズは沼田さんからもたらされます。
沼田さんから電話が入り、2014年1月早々にトルコのエルドアン首相(2016年現在大統領)が来日されるが、その時に、1985年トルコエアーによってテヘランから救出された日本人(沼田さん 高星)と首相が面会できるようにと駐日トルコ大使と、元伊藤忠商事イスタンブール支店長だった森永さんが首相のスケジュール調整をしているというのです。

 1月6日夕方、1890年エルトゥールル号遭難の時救助活動を行った方たちの関係者(末裔)の皆様、 そしてテヘランでトルコエアーによって救出された我々、友好関係にある下関市長と面会をするという方向で調整が進められて行きました。
 12月16日スケジュール調整が難航しているようで、我々の首相との面会はいったん白紙に戻されました。 12月27日なって再び1月7日夕方で面会の時間が確保できるとの情報が入りました。  急きょ履歴書をトルコ首相府に送る必要が生じ、履歴書を作成して送付しました。
 1月2日になって、正式に1月7日14:30〜15:30で帝国ホテルで面会が行われることが決定したことの連絡を受けました。 出席者は、イスタンブール市と姉妹友好都市の下関市長、ワンの地震のあと、救助活動中に余震に会い命を落とされた宮崎さんのお母様、国会議員の二階俊博氏、世耕弘成氏、今回のお世話をいただいた森永氏。そこに沼田さんと高星が参加させていただくこととなりました。

 一国の首相に会うすごい出来事に緊張もし、服装は?通訳はいるの?などいろいろ心配しながら、それでもめったにできない体験に心を躍らせていました。
 当日は面会の1時間前に、帝国ホテルで沼田さんと待ち合わせをして14:30のサクラホールでの面会を待ちました。 会場に案内されると、トルコ国営放送、NHKなどTV局、マスコミのカメラがずらりと並んでいました。
 そして面会をしていただく側の顔ぶれがそろった時、エルドアン首相が駐日トルコ大使の案内で会場の部屋に入って来られました。参加者一人一人と言葉を交わしにこやかにしておられました。私達も「1985年トルコエアーによって助けていただいた者です。本当にありがとうございました」。と言葉にしました。 エルドアン首相は、駐日大使にの声明にうなずいておられました。

 式典の中でエルドアン首相は、日本との友好関係を語る中で、「1985年にテヘランの日本人たちを救出することができたのは、お互いのために大変有意義なことであった。」と述べられていた。
 国会議員の方のあいさつや、田嶋串本町長からの名誉町民のキーの授与などが行われた。

 テヘランから救助していただいた者を代表して沼田さんが挨拶をしました。
「私は、1985年トルコ政府が日本人救出のために派遣してくださったトルコ航空機で、テヘランから215人の日本人の一人として助けていただきました。
 ですから私にとりましては、トルコは命の恩人です。私はこの事実を多くの日本人に知ってもらい、後世まで語り継がれていくようにしたいと思って、色々活動をさせてもらっています。その一つとして映画「エルトゥールル」制作支援のために2012年に結成されたNPO法人「エルトゥールルが世界を救う」にも協力させていただいています。それと私は長い間自動車会社で、自動車用プレス部品の金型の設計・製作の技術者として仕事をしていましたので、この経験を生かして、トルコに役立ちたいと考えています。このことに付いては、駐日トルコ共和国大使館のムサ・デミール一等商務参事官に相談に乗っていただける事になっています。是非実現したいと考えています。」

  最後に、エルドアン首相から参加者に記念品が、首相自らが一人一人にプレゼントされました。 皆様が、エルドアン首相の席の方に行ってプレゼントをいただく中、ご高齢の宮崎さんのお母様に対しては、首相自らが歩み寄っていってプレゼントを渡している心づかいが印象的でした。

 一国の首相にお会いして、握手ができるそんな幸福な一日でした。

第25話につづく・・・


式典でスピーチをするエルドアン首相(2014年1月時点)





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<2017年10月8日 掲載>

第25話 『映画化への道のりとの関わり』
文:高星輝次さん

 2014年という年は、1月7日に沼田さんとともにトルコのエルドアン首相(当時)に会うという、すごいサプライズで始まりました。
 2月には尚美学園の卒業制作の展示会にも招待され、当時の様子などをお話する機会をいただきました。2月22日には、和歌山市で開催された、エルトゥールル号の海難事故を映画化するための、PRのための講演会が開催され、田中監督の講演会に私もテヘランでの体験などを話す時間をいただきました。

 冒頭NPO法人エルトゥールルが世界を救うの浦会長が挨拶をし、「1890年の和歌山でのええ話、 1985年のテヘランでのええ話、この話をみんなが知って、困っている人には見返りを求めず手を貸す精神が世界中に広まったら・・世界平和が実現できる」と熱く語っていただきました。

 田中監督の講演は、聞く人をぐいぐい引き込み、映画作りの裏話や、苦労話を面白可笑しく話してくれました。特に大学の同期生である、串本町の田嶋町長との関わり、「串本にはええ話があるで、ええ話だろ」と熱烈なラブコールをされて、前作品のPRに来たつもりが、エルトゥールル号の海難事故の映画化を既成事実にされてしまったと、笑い話のように話てくれました。
 1月のエルドアン首相来日の時も、安倍首相―エルドアン首相会談に東映の社長とともに出席し、「何か困っていることはないか」というエルドアン首相の言葉に「映画は資金がかかります」と言ったところ、全面的なバックアップを約束してくれた話なども聞くことができました。
 そして私も、テヘランでの空襲から、トルコエアーでのテヘラン脱出までの体験を紹介させていただきました。

 同じく、2月22日は、私たちを救ってくれたオルファン・スヨルズ機長の一周忌イベントが串本町で開催されておりました。こちらには沼田さんが出席と、二つの大きなイベントに手分けしてかかわることができました。

 6月22日には、在日トルコ大使館で開催されたチャリティバザーにも参加させていただきました。これは5月13日にトルコ西部のソマで発生した炭坑事故で301人が亡くなる事故が発生しました。その被災者救援のチャリティバザーとなりました。沼田さんと私も参加させていただき、わずかながら寄付をさせていただきました。また、会場で新聞記者の取材にあい、翌日の新聞にも取り上げていただきました。

 9月4日には、自称アマチュア音楽家の向山精二さんが代々木のNHKホールで、トルコ国交90周年記念コンサートを開催した。彬子女王殿下、オルファンスヨルズさんの奥様も会場に来てくださり、司会は宮崎緑さんというすごい皆様にお会いすることができました。例によって、沼田さんと、私は1部と2部の間にステージに上がらせていただき、当時の様子を報告させていただきました。

 そして年は2015年になり、1月23日には、映画撮影の現場を見学させていただく機会を得ました。1月23日から二泊三日で串本を沼田さんとともに尋ねました。
 まずは、樫野崎に行き殉難将士の慰霊碑に手を合わせるところから始めました。そして、海難事故のあと傷着いた兵士たちを救助する場所となった、大龍寺を見学させていただきました。
 樫野崎灯台では、説明員をされている女性の方とお話をさせていただき、エルトゥールル号の時に樫野の皆様が必死の救助をしてくれたおかげで、95年の歳月を経て、戦火のテヘランからトルコエアーによって救助された216名のうちの2人であることを話しました。その方は、聞き知った話で、テヘランの邦人救出の話も紹介させていただいていますが、当事者に会えるとは思っても見ませんでした。自分が紹介していた内容に誤解がなかったかなど、当時の様子を大変熱心に聞いてくれました。

 さらに、遭難した人々の介抱に大龍寺だけでは足りなくなり、一部の方には大島漁港近くの蓮生寺にて養生をしていただいたという、蓮生寺も見学させていただきました。この大島漁港は、快復したエルトゥールル号の兵士たちがドイツの艦船で神戸に向け樫野を離れた港でもあるようです。そして神戸からは、比叡・金剛の2隻の軍艦によって兵士たちをトルコに送っていったわけです。
 エルトゥールル号の海難事故で負傷した兵士たちを献身的に救助・治療を行った樫野の医師3名に対して、兵士たちの帰国後、明治政府が医師たちに費用を請求するよう通知したところ、もともと費用を請求するつもりはないと断った手紙が発見されたという、無量寺も見学させていただきました。

 その時の手紙には以下のように書かれています。(17話でも紹介していますが)
 本日、 閣下より薬價・施術量の清算所を調成して進達すべき旨の通牒を本村役場より得たり。
 然れども 不肖 素より薬價・施術料を請求するの念なく、唯唯 負傷者の惨憺を憫察し、ひたすら 救助一途の惻隠心より拮?銚 従事せし事 故 其の薬價治術料は 該遭難者へ義捐致し度 候間 此の段 宜敷く御取り計らい下さりたく候也。

 そして、いよいよ映画撮影現場の見学。その日は、傷の癒えたトルコの兵隊が串本を離れる時のシーンや、遺品を綺麗に洗って繕っている串本の農民・漁民たちの姿を撮影されていました。撮影現場でお茶をいただき、出番を待っているエキストラのみなさんともしばしお話をさせていただきました。
 田中監督もわざわざお顔を見せていただき「沼田さん、高星さんが来ているならエキストラで出てもらえばよかったね、トルコの撮影のエキストラはどう?」などと冗談とも本気ともとれる話をしました。

 さらに今回の旅では、エルトゥールル号の遺品の発掘をされている海洋考古学者のトウファンさんご夫妻にも会わせていただきました。ちょうどその日の調査が終わって戻ってくるところを港でお待ちしていてトウファンさんご夫妻に会うことができました。さらにそのあと、奥様のご案内で、遺品を綺麗に洗浄して、一つひとつ台帳に記入し整理されている作業場も見せていただきました。当時の火薬は固まってしまっているものの、いまだに硫黄のような火薬のにおいがしました。125年の歳月を経過し、しかも海の底に沈んでいた火薬が火薬のにおいを放っていることに感慨深いものを感じました。

 2回目の串本訪問で、今回はゆっくりとエルトゥールル号ゆかりの場所の見学をさせていただいたり、貴重な撮影現場を見させていただき、さらには遺品引き上げの様子まで見せていただきました。串本町役場の皆様にも大変お世話になりました。
 そして何よりも印象的だったのが、映画の撮影現場の炊き出しをはじめ、串本町の人達がエルトゥールル号の事について本当に大切にしている姿に出会えたことでした。
 エルトゥールル号のこと、そしてテヘランにおける邦人救出の事がもっともっと多くの人に知られ、それこそNPO法人の設立趣旨にある世界平和につながれば素晴らしいなと思いつつ、帰京の途に就いたものでした。
 この旅のなかで、串本の民話の会の皆様のエルトゥールル号の紙芝居の絵をロイヤルホテルで見せていただきました。そして沼田さんから「私たちもテヘランの話を紙芝居にできたらいいな」という話が持ち出されました。その後の顛末はそのうち書かせていただきます。

第26話につづく・・・


映画撮影現場見学/串本ロイヤルホテルにて



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★沼田凖一さんによる 『日本・トルコ友情物語〜沼田さん編』 も掲載中!!
まったく同じ体験をしたお二人が同じテーマで文章を綴ったとき、そこに何か違いが見えるのか、
抱いた気持ちは一緒だったのか!?そんな部分にも注目しつつ、ぜひ読み比べてみて下さい。
 
『イラン・イラク戦争 奇跡の救出劇 〜日本・トルコ友情物語〜沼田さん編』は → こちら

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