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店主:JUNKO
店長について・・・
ヨーロッパとカフェラテと美男子をこよなく愛する日本人女子です。
過去にあちこち旅をしてきましたが、このショップでは、特にご縁があり、現地に仲間がいる「ポルトガル・イタリア・トルコ」の商品をそろえることにしました。
仲間の協力を得て、現地情報もできるだけ多く発信していきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
JUNPERIALとは・・・
もともとショップ名は、ポルトガル・イタリア・トルコの共通点から付けたかったのですが、なかなか良いモノがみつけられませんでした。
しかしある日、自分にとって最大の共通点を発見しました。「3ヶ国とも自分の大好きな国であること!!」
そんなわけで、「自分の好きな国が集まった帝国」→「Junko帝国の店」→「Junko Imperial Shop」→「JUNPERIAL SHOP(ジュンペリアル ショップ)」となったのです。


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が店休日です。



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イラン・イラク戦争 奇跡の救出劇
〜日本・トルコ友情物語〜

− 高星輝次さん編 第1〜16話 −


※第17〜25話はこちらからご覧いただけます。
※第26話〜はこちらからご覧いただけます。


序文
店長 JUNKO

1985年3月17日、イラン・イラク戦争のさなか、サダム・フセイン元イラク大統領は、「48時間後、イラン上空を飛ぶすべての航空機を撃墜する」と突如宣言しました。 当時、日本の航空会社にはイランへの路線がなく、安全も保証されないため、政府は救援機を出すことをためらっていました。他の国の航空会社は、自国民を優先するため、在留邦人は取り残されていったのです。
しかし、タイムリミット直前に、ついに救援機が。でもそれは、日本の航空機ではなく、トルコ航空でした。215名の日本人を乗せ、危機一髪のところでイランを脱出したのです。
でも、なぜトルコの航空機が日本人を救ってくれたのでしょう?

・・・時は遡ること95年前、1890年(明治23年)に、オスマントルコの軍艦エルトゥールル号は、公式親善のため来日しました。しかし、帰国の際、現在の和歌山県串本沖で、台風により沈没してしまったのです。乗組員のうち581名が命を落とす大惨事となりましたが、村民たちの手厚い救護のおかげで、69名が無事トルコに帰ることができました・・・

元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が、次のように語っています。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空が飛んだのです」

95年後のトルコの恩返しでした。
この2つの出来事は、100年近くも時を隔てていますが、人々の善意や感謝の心によって、しっかりと結びついているのです。

さて、上記のイラン・イラク戦争時、トルコ航空によって命を救われた日本人215名の内のお一人が、今回の連載企画で記事を書いて下さる高星輝次さんです。高星さんは、自分たちを救ってくれたトルコ人に、そしてその大きなきっかけを作ってくれた串本町の人々に、いつも強い感謝の気持ちを抱いていらっしゃいます。
高星さんとの出会いは、別ページで同じく『日本・トルコ友情物語』を書いて下さっている沼田さんからのご紹介でした。私がトルコ仲間と開催した『トルコ写真展』にお二人で出展して下さったのです(現在JUNPERIAL写真館にて展示中)。高星さんはご自身の体験をできるだけ多くの人たちに伝え、少しでも日本とトルコの友好に役立てれば、と常に考えていらっしゃいます。そんな高星さんですから、今回の連載企画についてお話した際には、「ぜひ書きたい!」と力強く申し出て下さいました。

このページは、“イラン・イラク戦争からの救出劇”と“エルトゥールル号の事故”を、まだ知らない方はもちろん、すでにご存じの方にも、詳しく知っていただこうと設けたものです。 高星さんという、実際の体験者が記事を書くことで、当時の生々しい恐怖心や、溢れるような喜びなどが、リアルに伝えられることと思います。
一人でも多くの方がこの記事を読んで、トルコという国に関心を持ち、2国間の友好へとつながっていくことを心から願っています。
それでは、高星さん、よろしくお願いいたします。

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<2011年08月19日 掲載>

第1話 『念願の海外赴任』  
文:高星輝次さん

1984年10月、以前より希望をしていた海外赴任が現実のこととなり、成田を飛び立った。まだ海外旅行にすら行ったことのない私がいきなり一人で海外に赴任することとなった。4月頃から語学研修と現地で担当する業務の研修を受け、10月の赴任に備えた。赴任先はイランの首都テヘランである。1980年からイランはイラクと交戦中ではあるが急激な進展はないだろうとの判断での赴任である。よもやこの時、半年後に戦争が激化し命からがら逃げ出す羽目になろうとは思わなかった。

初めて行った外国は、良くも悪くも一番思い出の国になるというが、初めての外国のテヘランは私の好きな都市となった。テヘランはイランの北部にそびえるエルブルズ山脈の南斜面に栄えた首都です。(エルブルズ山脈の北側はカスピ海となる)エルブルズ山脈には10月に入ると雪が降り翌春まで冠雪しています。テヘランの街にはこのエルブルズ山脈の雪解け水が豊富にあり、街路にはその水を利用しプラタナスをはじめとする街路樹がたくさん植えられています。日干しレンガでつくられた家々が並ぶ住宅地、緑豊かな公園、いつも人々の喧騒であふれる市場など、散歩にはとても楽しい街です。

約10,000台の車両をイランが購入し政府系組織が使用をしてくれており、そのユーザー組織を訪問して故障などが起きていればその対応の仕方を指導したり、車両の整備の仕方などのトレーニングを行うのが、現地での私の任務でした。
赴任に当たっては、いったんギリシャのアテネに入りそこで中近東・アフリカ市場を統括している駐在員事務所に立ち寄り、アテネの事務所員(日本人)に付き添われてのイラン入りとなった。アテネからテヘランの間はイランエアーを利用することとなる。離陸してしばらくすると、真っ黒い布(ヘジャーブ)をかぶった女性がいきなり薄汚れた(透明度の低い)コップに注がれた水のようなものを突き出してきた。いったいどうしたものかと、付き添ってくれているアテネ事務所の方の方を見ると「スチュワーデスだよ、炭酸水の機内サービスだよおいしいから飲んでみれば」と言われた。この国では国際線のスチュワーデス(当時はスチュワーデスというのが通常の表現でしたのであえてこの表現を使います)といえどもこのような服装(ユニフォーム?)で機内サービスをするのかと最初の驚きを体験しました。

テヘラン メヘラマバードエアポートの到着。ここでは持ち込む外貨を狂いなく申告して出国時に外貨交換証明と残高がぴったり一致しないと出国できなくなるといわれて緊張してお金を数えたものでした。そして実に念入りな手荷物検査、長期に滞在するのでギチギチに詰め込んだ鞄を開けて検査を受け後で閉めるのに大変苦労をしました。
こうして香水と体臭の入り混じった匂いの中、私のテヘランでの生活が始まりました。
第2話につづく・・・


冠雪したエルブルズ山脈




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<2011年08月30日 掲載>

第2話 『テヘラン珍道中』
文:高星輝次さん

テヘランに着任して最初の1カ月は前任者との引き継ぎだった。急遽サービス派遣員を送り込むこととなったため、ガーナやサウジアラビアでの駐在経験のある私の先輩が最初の4か月を務めた。 前任者が帰国する日の朝、リビングのカーテンを開けると風景が一変していた。目の前にそびえるエルブルズ山脈が初冠雪していた。暑い砂漠の国をイメージしていたがここテヘランにおいては、サラサラの砂の砂漠もなく日本で言う工事現場の地面のような土漠が広がっており、日本の四季に近い季節の移り変わりもある。

イラン-イラク戦争も小康状態を続けており、このころの会社や家族への手紙には「テヘランに住んでいる限り、なにも不安な要素はなくここが本当に戦争中の国なんだろうかと思うくらいです」とことさら心配をかけないよう戦争の影響がないことを書いて送っていました。我々の自動車を売り込んで商談を進めてくれる商社の事務所の1部屋を借りての仕事であった。

イランの交通事情は日本人から見るとかなり特徴的で、車線のラインが書いてあっても誰も車線を守らない。赤信号で流れが止まると車線を無視して少しでも前に出ようとする。当然、車と車がぶつかりあう事など珍しくもない。街を走っている車はみんなへこみ傷だらけである。傷の付いていない車を見たらそれは国民が恐れる革命中央委員会の車両だと思えと教えられた。車両の登録ナンバーの記号で政府の車かどうか判断がつくらしかった。片側3車線も4車線もあり、私たちの目には無秩序に走っている様に見える車の列の中を歩行者が横断するのである。私はエンドユーザーの事務所を訪ねた時たびたびこの道の横断をしなくてはならなくなるのだが、最後まで慣れることはなかった。商社の現地スタッフの方に腕を掴まれて「私と同じ歩調で歩いてください。立ち止まってはいけません」といわれるが何度やっても身のすくむ思いだった。あるときなどは本当に自分のつま先すれすれの所を自動車のタイヤが通過していったものです。

テヘランには日本人になじみの野菜なども多くその意味でも暮らしやすいところです。第1話で書いたアテネの駐在員などは、テヘランに来るたび白菜を買って帰るよう頼まれると言っていました。大きなラグビーボールのようなスイカもあります。ペルシャ語でスイカは「ヘンダワネ」と言います。鶏は羽根を抜いただけで一匹単位で売っています。あるとき運転手と鶏を買いに行った時「おまえは足を食うか?」と聞かれました。「No」と答えると店主に足を切り取ってから計量するように言いました。それを見て生真面目なイラン人の片りんを見た気がしました。 あるとき郊外の道路を走っていた時、通訳をしてくれていた男が「トイレット」と言って高速道路の路肩でおもむろにしゃがみこんだ。「えっ 大をするの?」と思いきや、この国では男性の立ちションはないようです。
第3話につづく・・・


パーレビ通りのプラタナス並木と高星さん




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<2011年09月2日 掲載>

第3話 『自動小銃を突き付けられた思い出』
文:高星輝次さん

テヘラン滞在中に2度自動小銃を突き付けられた今だから笑える話がある。1回目は前任者との引き継ぎ期間中に一緒に顔つなぎの訪問ができなかった、革命中央委員会を訪問した時のこと。前任者からは、「あそこは軽く手を上げるだけで通してくれるよ」と聞いていた。ところが、私は前任者とは違ったタクシードライバーを雇い、当然車も変わり、乗っている人も違うそれで革命中央委員会の門を軽く手を挙げて通過しようなどと思ってはいけなかった。門の警備にあたっていた10名近い兵士が私たちの車を取り囲み、開けていた窓から、私のこめかみに銃口を突き付けて、銃の安全装置を外すような「ガチャリ」という音をさせた。当然ドライバーにも銃が突き付けられ、さらに車の前後を2名ずつの兵士が囲んだ。 あの時、私に銃を突き付けた兵士が「くしゃみ」でもしたはずみで銃が発射してしまったとしても、革命中央委員会の門を強行突破しようとしたゲリラが射殺されたという事だけで片付けられてしまったのだと今更ながら思う命拾いでした。

2度目は商社の方と、休日にテヘラン北部の山の方にハイキングに出かけた時のことです。私たちは知らないうちにハイキングコースを外れてしまって、とある集落に出ました。そこではお祭りのようなことをしていて、それはそれでとても楽しいことを見せてもらったのですが、その集落からハイキングコースに再び戻って歩き出した時のことです。突然山の上の方から自動小銃を下げた兵士たちがこれもまた10名近くすっ飛んできて私たち一団に銃を向けて取り囲みました。 この時は言葉に堪能な商社の方もいましたのでその方が兵士に色々事情を説明しました。どうもこの集落の方に迷い込んだためハイキングコースの途中にある「外国人立ち入り禁止」の看板を見ないで先に進んでしまったようです。丁重に謝りつつも「でももうおなかが空いてしまった。ここでお弁当を食べてもいいか」と食い下がるちゃっかり者の私たちでした。無線機を持った兵士が少し離れた岩の上に行って何やら交信をして戻ってきて「よし 食べてよい」という事になりそこで車座になって座り持参したおにぎりを食べさせてもらいました。もちろん国境警備隊の兵士たちは私たちを取り囲み相変わらず銃口は私たちの方に向けられていました。
添付の写真は、まさに銃を突き付けられながらおにぎりを食べた時の写真です。 お弁当を食べて無事下山した楽しい休日でした。

テヘランの北部にはいくつか風光明美なハイキングコースがあります。そしてハイキングコースのそばにチャイハネイというお茶を飲ませてくれるお店もあったりします。楽しい休日の過ごし方です。
第4話につづく・・・


自動小銃の前で



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<2011年09月23日 掲載>

第4話 『テヘラン空襲への序章』
文:高星輝次さん

1985年2月半ばのことだったと記憶している。その週は道路交通省のメカニックの人たちに車の整備を教えるトレーニングのため、毎日テヘラン南西部の道路交通省のワークショップに出向いていた。メカニックはイラン全土から招集されて来ている、20人ほどのメカニックに対する研修である。 研修生は昼休みになるとみんなでサッカーに興じている。敷地内のコンクリート舗装されたところで靴を脱いで、はだしでサッカーを始めるのである。研修の通訳をしてくれているN商社の現地スタッフのダブード君によれば、「革靴で来ているから、靴が痛むから靴を脱いでサッカーをしているのだろう」という。それにしても裸足でコンクリートの上を駆け回り、ボールを蹴るのだから面の皮ならぬ足の裏の皮の厚い人たちである。私とダブード君はそんな研修生を横目に見ながら道路交通省の敷地内を散歩していた。

その時である、私たちの鼓膜を引き裂くような鋭い金属音に襲われた。よろけるように空を仰ぐと銀色に光る戦闘機がかなりの低空飛行で頭上を過ぎて行った。こんな低空飛行で飛び立っていく戦闘機はイラン空軍のものだと何の疑いもなく手を振って見送った。実践に配備されている軍用機には国籍を表すマークなどは貼られてないことをこの時初めて知った。 そしてその日の研修が終わって自分たちの事務所に戻る車の中で、ダブード君は「テヘランの西にあるカラジダムの発電所が今日爆撃された。多分さっき見たのはイラクの戦闘機だったのだろう」と教えてくれた。

実はこの一件が私にとってのトラウマとなったようです。日本に無事逃げ帰ったあとずいぶん長い間、銀色の機体の戦闘機に追いかけられて土漠の大地を四つん這いになって逃げ回る夢を見ました。実際の体験では一瞬にして私たちの頭上を越えて行った戦闘機ですが、夢の中で出会う戦闘機はものすごい音を立てて飛んでいるのにいつも私の後ろ側にいて、私にめがけて機銃を撃ってくる。私はと言えば、夢なんてそんなものですが必死になって逃げるのになかなか前に進まない。土漠はいつも土手の様な上り坂、必死に、必死に四つん這いで逃げる夢にうなされました。

でもその時はまだこれがテヘラン空襲の序章であることとは思いが及ばず、緊張感の高まりもなければ、国外に脱出しなければなどという考えには一切結びつかず、毎日の仕事に没頭していたのです。
第5話につづく・・・

 
道路交通省の研修に集まった研修生たちと



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<2011年10月9日 掲載>

第5話 『空襲警報を聞きながら 』
文:高星輝次さん

1985年2月頃からテヘラン市内でも度々空襲警報が鳴る様になって来た。相当高い高度を飛んでくるらしく、空襲警報を聞いても実際にイラク空軍機を目撃するわけではないが、地上からは高射砲で迎撃をするらしく空襲警報が鳴ると高射砲の音がしばらく鳴り響く。

このころになると、灯火管制なのか電力不足なのか停電することも増えてきた。私の住んでいるアパートはN商社が社宅のように借りているアパートの一室を使わせていただいていた。韓国人のナミさんというコックが毎日アパートに来て夕食を作ってくれていた。ご飯は米を研いで日本から持ち込んだ変圧器と炊飯器で夕方にはスイッチを入れて帰っていくことになっていた。ところが、夕方停電になると炊飯器が途中でストップすることになる。炊き始める前に停電になったのはまだいいが、いったん沸騰したあたりで停電になった場合の方が悲惨な炊きあがりになった。停電の時は帰ってきてから炊飯器の炊きかけの米を鍋に移してガスコンロで仕上げの炊きこみをすることとなった。
27歳になったばかりのわたしが外国で空襲警報を聞きながら、高射砲がさく裂する大音響の中、停電の暗闇でろうそくを灯して夕食を食べている姿は「なかなか体験できないことを今私は体験している」という気分であまり恐怖も感じずにそんな生活を楽しんでいた。

戦況に関する情報についてはN商社の所長が大使館や日本人会からの情報を我々にも伝えてくれていた。まだこの時点では、「イラク軍機がイラン北西部の国境を侵犯するとテヘランにも空襲警報が出るようになっているが、イラク軍はイラク領内からテヘランまで飛んできて攻撃をして帰るだけの航続距離のある戦闘機は持っていないので、テヘラン空襲は無いだろう」という見解が伝えられており、そんなことからもあまり恐怖を感じてはいなかった。以前にダブード君が言っていたカラジダム攻撃に向かったという戦闘機も我々の見間違いだったかなくらいに考えていた。

またこのころから、砂糖やガソリンが配給制度となっていった。日常の交通手段がタクシーを雇って使っている私たちにとってはガソリンが手に入らなくなるという事は、移動手段を奪われることとなる深刻な問題であった。ガソリンが配給制になるという話がダブード君から教えられて街を見てみると、そこにはもうガソリンスタンドに並ぶ長蛇の列が出来上がっていた。そしてこの国のおおらかさというか、いい加減さというか、クーポン制度になるというアナウンスがあったその日の夕方にはすでに「闇クーポン券」なるものが出回り、高額で売買されていたようです。そのようなわけで、空襲警報が鳴る中でも移動の手段は確保でき、「インシャーラ」(すべては神のおぼしめし)と言いながらわが身の運命を成り行きに任せていました。
第6話につづく・・・


自炊する沼田さんと高星さん




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<2011年10月30日 掲載>

第6話 『一日ちがいの命拾い』
文:高星輝次さん

イラン政府が購入した4輪駆動車のアフターサービスが私の仕事である。4輪駆動車のユーザーとなる政府機関は、前出の革命中央委員会や、道路交通省だけではなく、イラン赤十字(正しくはイラン赤新月社というべきか)、NHKと協力提携しているイラン国営TV、そしてイラン国営石油会社(NIOC)などがあった。イランの石油産出は南部の都市アファーズなどに多いため、当然わが4輪駆動車も油田近くにも行っているわけである。前任者が赴任した直後からすでに南部のアファーズへの巡回サービスを求められていたが、安全上の懸念から日本の本社の許可が取れないでいた。私自身もなんとかアファーズへの巡回サービスに行けるよう本社に要請をしていた。そして、ようやく1985年3月7日にアファーズへの巡回サービスの許可が下りたのである。

テヘランは土漠の土地である。イランは砂漠の国と思ってきたが、土漠地帯はまるで大地全てが工事中の造成地の様な風景である。しかし、南部の油田地帯のアファーズなどは本物の砂漠で、一面綺麗な砂で覆われているという。油田地帯の煙突の上で燃える炎が夜の砂漠を照らす時、それはもう幻想的な美しさである。と南部の砂漠地帯を見た方から教えられ、イランに来たからには是非見てみたいと思っていた。今まで巡回サービスに行っていない地帯に行くので、色々故障の話とか、サービス部品がないとか問題山積で強烈な苦情の嵐でハードな出張になることは明白だが、私の頭の中では、砂漠の中でチロチロと燃える油田の明りと月明かりに照らし出される幻想的砂漠の風景が広がっていた。

しかしである、出張前日の3月6日朝、私の事務所にダブード君が手のひらを上に向け、大きく腕を広げたジェスチャーで入って来て言った。「?星さん、アファーズの街は今朝イラクの攻撃によって壊滅状態となった。明日のアファーズ出張はできなくなりました」さっそくN商社の関係者とも協議し、出張は中止という事にして要請元の国営イラン石油会社を訪ねた。 応対にでた幹部も即座に「おまえたちが今日ここに来た理由はわかっている。残念だが今回のアファーズ巡回サービスは中止だ」と言った。出張日程が1日ずれていたら・・・私はアファーズに消えていたかもしれない。

この日を境に私は事務所の壁にイラン全土の地図を貼りだし、毎朝ダブード君から寄せられる現地のニュース報道から戦火の広がりを記録し始めた。
・3月6日 南部の油田地帯 アファーズ、原油積み出し港バンダル・アバス爆撃
・3月8日 アファーズの北の都市 デズフル爆撃
・3月9日 更に北上してコーラム・アバッド、国境地帯のピランシャー爆撃
・3月10日 古都イスファハン、ナハバンド、国境地帯のイラム、マリバン爆撃
・3月11日 北部工業都市タブリッツ、中央部のアラック爆撃

日を追うごとに、しかも確実にイラクによる攻撃は激化・拡大していることがさすがの私にも実感として迫ってきた。「もしかしたらテヘラン爆撃も近いのではないか」と思う一方で在イラン日本大使館発表の「重大な用事のない方はイラン国外へ退去することもやぶさかではない」という言葉に、「まだ大丈夫なんだろう。取り乱してはいけない」と平常を装って戦火を見守っていた。

誰しも急激な戦火の拡大に大きな不安を抱きつつも、経済大国日本の企業戦士として、自分たちの会社・チームが真っ先に戦線離脱をすることを良しとはしなかったのだろう。各企業の日本本社も、安全確保に万全を期すようにとはアナウンスしながらも「退去せよ」という業務命令は出せずに時間が過ぎていったように思える。
第7話につづく・・・


戦火拡大を記録するイラン地図





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<2012年1月3日 掲載>

第7話 『ついに首都空襲』
文:高星輝次さん

1985年3月12日未明、私の住んでいるテヘラン市北部のナフト地区という比較的高級住宅地に衝撃が走った。ついに首都テヘランにロケット弾が投下された。その頃、私のアパートはベッドルームが3室あり空けておくのももったいないし、ホテル住まいよりはくつろげるでしょうという事で、日本からの出張者達を2名ずつ私のアパートを利用してもらっていた。

空襲のあった日は日産ディーゼルから出張に来ていた二人が私のアパートに宿泊していた。未明、ものすごい音に飛び起きてベッドから落ちたとその人は言う。空襲直後心配してN商社の駐在の方がすぐに私のアパートに電話を入れてくれた。そのとき私は・・・・爆撃音にもそれによる振動にもたじろがず?眠っていました。そうなんです、私は爆撃でも目を覚まさず寝ていたのです。朝が来ていつも通り起きてきた私に、爆撃以来眠れずリビングで身を寄せ合っていた二人が、未明の恐怖を語ってくれました。「未明にものすごい音と振動があり飛び起きていたら電話が鳴った。イラン人からの電話だったらどうしようと思いながら出てみたら、N商社のM部長からの電話だった。『?星さんは?』と聞かれて私のベッドルームの様子を窺うといびきが聞こえてきた。」

やがて、会社に行く時間となり運転手も来たので下りて行くとN商社の所長と顔が会い「いやあ、ついに来ちゃいましたね。」と言われて、初めてやはり未明の空襲は本当だったんだ。それでも目を覚まさなかった私は、もう少し着弾点がずれていたらそのままわからないままこの世とおさらばだったのかも知れないなという思いがした。

この日を境に、私たちもいよいよ「国外脱出」を真剣に行動に移すこととなる。工場の生産立ち上げで来ている皆さんは、工業施設などは攻撃目標にされている可能性があるという事で、工場へは行かずN商社の事務所で待機していただいた。私もユーザー訪問でもないので自分の事務室で出張者のご家族への電話連絡を試みる。
事の真意は定かではないがこの当時、日本とイランの間には電話回線は2本しかなく、そのうちの1本は日本とイランの国家事業ともいうべき「イラン-ジャパン石油化学プロジェクト」が独占的に使っており、そのほかの人は1本の回線だけで通信しているとのことだった。私は、朝事務所へ出社後、自分のデスクでひたすら電話のダイヤルを回し続けた。6人の出張者の家族と電話がつながり、自分の家族に電話をしたときには、外は夕暮れで赤くなっていた。あまり滑らかでなく、反力の強い電話機のダイヤルを一日中回し続けた私の右手の人差し指は爪の中で内出血を起こし爪が紫になっていた。

こうして、昨夜至近距離で爆撃を受けたアパートにまた戻って夜を過ごすこととなった。「今夜も爆撃はあるのだろうか? 昨日あれだけそばに落とされているのだから、私のアパート直撃があっても何の不思議もない」この日が一番不安な夜だったかもしれない。
3月19日の脱出が叶うまでの恐怖と怒りの1週間の始まりであった。
第8話につづく・・・


蜂の巣の車





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<2012年2月12日 掲載>

第8話 『砲弾の下をくぐる日々』
文:高星輝次さん

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」という幕末の狂歌がありますが、3月12日未明の首都空襲は私たちの生活を一変させた。
私の住んでいるアパートは市の北部の高級住宅街にあった。そう遠くないところに最高指導者ホメイニ師の住居もあるというエリアである。イラク空軍機は国境防衛の手薄なイラン北西部からイランに侵入し、標高4000mのエルブルズ山脈を越えると一気に急降下しエルブルズ山脈の裾野にあるホメイニ師の住居を狙っているとの情報ももたらされた。つまり、私のアパートのある辺りは一番流れ弾が飛んでくる可能性が高い場所という事となる。

当時のイランの2階建3階建て程度の建物はレンガ作りである。床も壁もレンガを積み上げて作っていた。出来上がった建物はレンガの上にモルタルを塗って仕上げ塗装もしてあり綺麗な仕上がりになってはいるものの所詮はレンガの家である。20畳ほどのリビングルームの真ん中に立ち、ぴょんとジャンプし、静かにしていると床が上下にゆさゆさと揺れているのがわかる構造である。こんな建物にロケット弾が着弾しようものならそれこそひとたまりもないこととなるのである。実際N商社の方が空襲の後で様子を見に行き小高くレンガのガレキが積まれている場所に立ち、周囲の被害状況を見ていたら、「おまえが立っているところが攻撃によって崩れ落ちた建物のところだよ」と教えられたという。

私たちはN商社の計らいで、北部の高級住宅街から市内の地下室のあるラマティアホテルに住まいを移した。そして昼は航空券を求めて商社の方と一緒に歩きまわり、夜は身を寄せ合って無事を祈る日々となったのである。
イランエアーは日本航空と共同運航の形をとっていたので、日本航空の事務所はイランエアーと同じ場所にあった。「なぜ日本航空は日本人のために飛行機を飛ばしてくれないのか」と日本航空のイラン人スタッフに詰め寄ったところ「それはお前たち日本人の問題だ、ここにはもう日本人スタッフはいない」と追い払われた。 万一の為に購入しておいたオープンチケットも、自国民優先で数少ない便に乗せて脱出していく欧州系の航空会社の前には何の効力もなかった。

そんな中、スエーデンのボルボ社の従業員たちが陸路バスで脱出するので同じ自動車会社のよしみで乗せてくれるという話がもたらされた。陸路での移動はゲリラや盗賊がいるという山岳地帯を越えて行くという危険が伴うこととなる。メンバーを集めてどうするか話し合った。「ここにじっとしていても埒があかない、陸路脱出に賭けよう」というのがメンバーの結論であった。 夕方になって、明日の陸路脱出に向け、N商社の社用車でいったんアパートに身の周りの物を取りに戻った。その最中に再び爆撃が始まった。4輪駆動車の窓ガラスが割れそうな勢いで爆撃音の振動が伝わってくる。ドライバーのババイ君は「ネミシェ ネミシェ(できない、無理だ)」を連発する。「いいから進め」とババイ君を叱咤激励しアパートに戻った。

翌日、一縷の望みを持ってボルボの指定する場所に私たちは立っていた。そして私たちに言われた言葉は「あなたたちはこのバスに乗って行っても国境を超えることはできない」という現実であった。ボルボの人たちは事前に陸路国境を超える手続きをしていたようであった。
落胆してホテルに戻るのは本当に取り残されていっているという現実をひしひしと感じさせた。その夜も空襲警報が鳴り響き、迎撃する高射砲の花火の様な音と光が私たちの避難しているホテルの窓から見えていた。
第9話につづく・・・


軟禁状態のホテルにて陣中見舞いに来たパートナー会社の社長と






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<2012年3月19日 掲載>

第9話 『脱出 −トルコへ −』
文:高星輝次さん

1985年3月12日のテヘラン空爆の日から、自分の命の危険というものを感じながらの日々を過ごした。昼間は国外脱出用のチケットを求めて航空会社のオフィスをめぐり、夜は空爆の音か対空砲火の音か区別はつかないものの、連夜空を焦がす砲弾の光を見上げながらホテルの地下室での軟禁状態。

そして3月18日の夜、N商社の方から「明日、トルコの救援機に乗れるかも知れません」という情報がもたらされた。期待7割、本当に今回は脱出できるの?という猜疑心3割、それでも当然「脱出」に望みを託します。

3月19日、早朝からテヘラン メヘラマバード国際空港へ全員で向かう、N商社のKさんがトルコエアーのオフィスへ行って我々全員の航空券を買って空港で合流する計画だった。空港は異様な雰囲気だった。それほど離発着があるとは思えないのに、空港周辺の道路は大混雑、空港ビルも人であふれかえっている。チケットを購入しにいったKさんがなかなか空港に戻らない、みんなじっと待つ。やがてやっとKさんが現れる、一瞬みんなの顔に喜びの笑顔が漏れる、でもまだこれから先なにが待っているかわからない。搭乗手続きで待っていた私たちに爆撃音の大音響、ついにここまで来て空港爆撃か?ジェット戦闘機が緊急発進する爆音。外の様子はうかがう事の出来ないビルのど真ん中でひたすら無事出国できることに望みをつなぐ。

パスポートコントロール、いくら並んでいても列は先へ進まない。いよいよしびれを切らしたN商社のMさんがパスポートコントロールのカウンターへ向かうのに後についていく。そこでは大勢のソ連人の団体がいて、列の後ろの方のソ連人のパスポートを手渡ししてパスポートコントロールを占拠していた。Mさんの激しい抗議にも耳を貸す様子はない。その時ソ連人の年配の婦人が私に言う。「あなたたち日本人の飛行機はあなたたちが乗り込むまで待ってくれるでしょう。でも、私の国の飛行機は危険となったら私たちを置いて飛び立っていきます。どうか私たちを先に行かせてください」と、でも私たちの乗る飛行機は日本の飛行機ではないんです。この時の複雑な気持ちは今も忘れていない。

やがてようやく搭乗することができた。滑走、離陸、上昇・・・・無事上空へ心の中で祈る。上空に出て安定飛行に移った、ちゃっかりビールを要求して見る。スチュワーデスは「OK ちょっと待って」という。飛行機の中はやはり緊張に静まりかえっている。しばらくして飛行機の中がざわめく、我々の乗る飛行機の主翼の先にピタリと寄り添うジェット戦闘機が見えた。パイロットの顔がわかるほど近い、どこの国の戦闘機か我々にはわからない。反対側の窓際でも外にくぎ付けになっている。戦闘機に両サイドを挟まれたようだ。イランの護衛なのか?イラクの攻撃を受けるのか?ここまで来て私たちの運命は?気持ちが凍る・・・・・

そして機長の「トルコへようこそ。当機はただいま国境を超えました」というアナウンス。機内が大きくどよめく、仲間と喜ぶ声、機長への感謝。ほどなくして一斉にビール ウイスキーなどのドリンクサービスが始まる。
アンカラ空港へ着陸。普段、飛行機が無事着陸したくらいでは拍手などしない日本人が大歓声で無事の着陸に感謝する。 そして再び離陸してイスタンブールへ。

アンカラへ着陸した頃からイスタンブールに着くところの記憶は私の脳には残っていない。気丈に装っていても極度の恐怖と緊張だったのだろうか、今もってこの時の記憶は戻ってこない。この後の記憶はイスタンブールへ無事たどり着いて、エタップホテルで仲間と命がつながったことを喜びあって、トルコの赤ワインで乾杯するシーンからよみがえる。 そして幸福の美酒に酔い・・・再び記憶が途切れていく・・・

トルコの人たちに命を助けていただいた日。
第10話につづく・・・


N商社の現地スタッフとKさんと高星さん
明日の命の知れない日々に「最後の記念写真になってしまうかも?」と思いつつ撮影されたもの






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<2012年5月6日 掲載>

第10話 『私たちの戦後』
文:高星輝次さん

 1985年3月19日イラン-イラク戦争が激化し逃げ場を失った私たちをトルコエアーが救助してくれました。無事逃げ出すことができたイスタンブールの夜はしたたかに美味しいワインをいただきました。多くの日本人がそのまま日本へ帰国した中、私たち一行はパリに廻り一泊して日本へ向かいました。ですから成田空港でのマスコミの集中砲火は浴びずに静かな帰国となりました。でもパスポートコントロールで「どちらから?」と聞かれてイランからと答えると「ご苦労様でした」と答えが返ってきました。

 帰国して初めて茨城の実家に帰った時、母は黙って私の背中を撫でていました。たまたまその日伯母が来ていて「よく無事で・・・」と私にすがって泣き崩れました。とんでもない心配をかけてしまったと改めて思いました。
 母や伯母にとっては太平洋戦争を経験しており、戦争のつらさ怖さ無残さは骨身にしみていることなのでしょう。ずいぶん後になってから、戦争が激しくなっていくニュースが流れる中、私の安否を会社に尋ねるべきか、親がそんなことを言わない方がいいのかずいぶん悩んだと聞かされました。

 無事帰国できて、元の日常を取り戻して行きました。そんな中(多分沼田さんが発案者だと思うのですが)あの時のメンバーでまた集まってお話をしたいねという事になりました。イラン戦友会発足です。

 最初の戦友会は山中湖に一泊してゆっくりとお酒をいただきながら思い出話をする会にしました。ところが、山中湖近くの自衛隊演習場では夜間の火器訓練の日でした。イラン-イラクの戦争の夜を思い出せるような爆音、振動・・・・すごい演出の戦友会となりました。

 その後も那須で一泊の戦友会をやったり、千葉養老温泉で開催したりしましたが、徐々にみなさん日々の仕事とお付き合いの方が忙しくなり、戦友会の開催も徐々に頻度が下がって行きました。

 こうして私たちの戦後の時間が進んで行きました。
第11話につづく・・・


戦友会






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<2012年6月30日 掲載>

第11話 『再びテヘランへ・・・・』
文:高星輝次さん

 1985年3月19日テヘランからトルコエアーに救助していただき、無事に帰国を果たした。私は日産とイラン機械買い付け公団の契約によりサービス派遣員として現地に赴任していたわけだが戦争が激化し契約の派遣期間を満了せずに急遽帰国した形となっていた。帰国後の私の人事は本社輸出サービス部所属の形のまま、当面は派遣前の自分の職場である車両実験部で業務を行っていた。

 テヘラン脱出から1年4カ月が経過した頃、私にとってはこのままなし崩し的に再赴任は無いのではないかという思いが強くなっていった。そして彼女と結婚の約束をした。 その翌日出勤した私に上司は「本社からの要請がきた、イラン-イラク戦争も小康状態が続いておりもう一度残りの期間赴任してくれ」と告げた。こうして1986年8月から12月までの2回目の赴任が決まった。

 2度目のテヘランは戦争も小康状態が維持されており、1年4カ月前にお世話になっていたN商社の事務所もアパートも破壊されずにそのまま残っていた。前回の赴任では、エンジン・トランスミッションといった機械ものの整備方法の指導をメインに実施していたがそれも各エンドユーザーに一巡したことから、電装関係の講座を開設するための準備から入っていった。

 N商社も、戦争が一段落すればイランはすぐに経済復興し日本との貿易も活発になると見込み、自動車にもその期待をかけていた。自動車の取引が活発になれば当然当社からの出張者なども増加するだろうということで、前回のようなアパートではなく300坪ほどある邸宅をゲストハウスとして契約した。国営イラン石油会社のVIPが娘夫婦用に立てた邸宅で(娘夫婦は戦争の最中カナダに移住してしまったらしい)、テラスは大理石、キャッチボールのできる大きな庭、玄関ロビーにはピアノが置いてありベッドルーム4室という構えであった。さらに契約に当たっては、庭の手入れなどをしていた下男を一緒に雇用することが条件であった。彼は庭の片隅のレンガ作りの小さなハウスに住み、ほとんど24時間私たちに仕えてくれる状況であった。料理を作ってくれる元ダンサーの韓国人女性のコック、掃除を担当する女性、そして下男、毎日の出勤退勤を含め移動はすべてお抱えの運転手がついていて、朝出勤時間になると、玄関横付けで車が待っていて、庭の門は下男が開け閉めをし、「ご主人様行ってらっしゃいませ」という状態で、私の身分ではありえないような生活であった。休日にはダム湖へドライブに行って(自分では運転せず運転手付きで)ボートに乗って遊んだり、深まりゆく秋の公園を散歩したり、パーレビ国王時代の博物館を見学したりと実に平和な生活であった。

 二度目の赴任で現地の方との面識もあり、すでに購入していただいた車両の保証期間は過ぎていることもあり、あまり強い苦情などもなく比較的穏やかな赴任生活を送っていった。
第12話につづく・・・


現地スタッフの家でホームパーティー






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<2012年9月23日 掲載>

第12話 『二度目のイスタンブール』
文:高星輝次さん

 二度目のテヘラン赴任は4カ月の予定となっていた。就労ビザは持たないで旅行者として入国している関係上、滞在できるのは3カ月であった。3か月で一旦、他の国に出国し再入国して任期をつなぐこととなる。

 1986年11月に一時出国をどこで過ごすかを考えるのは結構楽しみでもある。前回の赴任中に一時出国を予定していて戦争激化により急遽帰国してしまって叶わなかった、オーストリア・スイスへ行くという選択肢もあったが、折からの不景気の影響で「一時出国は近隣の国で最小限の日程で計画するように」という指示が本社から出された。ドバイかトルコ辺りでということである。ならばトルコに婚約者を呼んでトルコで会おうかということも考えたが、最小限の日程でという指示を考えると、1日・2日の滞在の為にわざわざ日本から婚約者を呼ぶのもためらわれ、結局一人で2泊3日のイスタンブールの休日とした。

 1985年3月にトルコエアーによって戦争の最中に救出していただいたわけだが、二度目のトルコ訪問にあたっても特別な感慨は持たずに訪ねていった。ましてや90年以上前に和歌山県樫野の方たちが台風によって遭難したトルコの軍艦エルトゥールル号を救助し、そのこともあって、戦争の最中に危険を冒してトルコエアーが日本人を救助してくれたというようなことは全く理解しておらず、今となっては、自分の勉強不足と無知を恥じるところである。

 イスタンブール アタチュルク国際空港に到着し、ホテルまでタクシーに乗った。滞在先はシェラトンホテルだったと記憶している。ホテルまでのタクシーの中でドライバーと話していると「観光をするなら明日1日中タクシーで案内するから雇ってくれ」という話になった。確か日本円換算で1万円くらいだった。土地も不案内だし、1日で効率よく見て回るのには丁度よいだろうと思って、そのドライバーにお願いすることとした。「明日8時丁度にホテルの玄関で会おう」ということにして別れた。私にとっては約束の時間にきちんと時間を守ってやってくることが、そのドライバーに身を委ねるかどうかの一つの判断基準にしていた。

 果たして彼は、8時丁度に私がホテルのロビーに降りて行くと既に来て待っていてくれた。タクシーに乗ってまず最初にお願いしたのが「紙」を買いに行くことである。このころテヘランでは紙が不足し、N商社含めて紙で困っている状況で合った。事情を話すとドライバーはもう一度ホテルで紙を買うところを確認して、紙問屋が並ぶような場所に連れて行ってくれた。A4サイズの紙を30kgほど購入してから、彼の案内でイスタンブール観光が始まった。

 ブルーモスクを始め有名な建物・寺院を見学し、ボスポラス橋を渡りアジア側へ行ったり、魚料理が食べたいという私のリクエストに答え、ボスポラス海峡を北にさかのぼり美味しい魚料理を食べさせてもらった。

 車中、トルコには親日家が多いことも聞かされた。バルチック艦隊に一矢を報いた日本軍への敬意や、ボスポラス海峡にかかる二つ目の橋が日本の技術で作られることなどをドライバーから聞かせてもらった。

 こうして2回目のイスタンブール訪問は実に快適な休日となった。
第13話につづく・・・


ボスポラス海峡のレストランにてタクシードライバーと






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<2013年1月27日 掲載>

第13話 『串本町との出会い』
文:高星輝次さん

 1986年2回目のテヘラン赴任から帰国し、それ以降も時々思い出したようにイラン戦友会は継続しているものの、私の中ではテヘランは過去の思い出となっていった。

 2004年NHKが当時の人気番組プロジェクトXという番組で、「撃墜予告 テヘラン発最終便フライトに急げ」という番組を放映した。1985年3月の邦人テヘラン脱出劇を取り上げたものである。これを契機に2004年9月には久々の戦友会を恵比寿にて開催した。
お互いの無事を喜び、そして時間の経過を実感していた。

 2009年4月30日一緒にテヘランを逃げ回った当社営業部のH氏の計らいで、日比谷にて当時の当社中近東営業部イラン班OB・OGの会が開催されて、参加させていただいた。
 このOB・OGの会に向けて、沼田さんより「NHK和歌山が取材に入りたいと言ってきているが協力してもらえないか?」との要望が出てきた。何事かと聞けば、沼田さんはテヘランからトルコエアーで救助していただいて以来、ずっとその恩返しについて考えていたという。そして1999年8月17日、トルコ北西部でM7.4の大地震が発生し16000人もの方が犠牲になったニュースに接し、居てもたってもいられず行動を起こしたという。トルコへの義援金の送り先を探す中で、和歌山県串本町がトルコと親交が深く国際協力などに使っていただけるふるさと納税制度ができることを知り寄付をしたという。
 この沼田さんのふるさと納税が串本町のふるさと納税の第1号であった様で、センセーショナルに取り上げられていったという。
 この時私は初めて1890年9月16日、和歌山県樫野(現串本町)沖でトルコの軍艦エルトゥールル号が台風で座礁・遭難し地元の方の献身的救助劇があったことを知った。

 NHK和歌山の取材を了承し、懐かしい面々との楽しいOB・OGの会となった。営業部のH氏、沼田さん、?星はNHK和歌山のインタビューなども受け、「次のイラン戦友会は串本町で開催かな?」と軽い冗談を言った。この後始まる日本-トルコ友好120周年記念行事への入り口となるとはまだ想像だにしていなかった。

第14話につづく・・・


NHK和歌山の取材を受ける沼田さん




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<2013年3月1日 掲載>

【号外】 追悼文 『オルファン スヨルジュ機長の訃報に接して』
文:高星輝次さん

1985年3月19日、逃げ場を失った私たち日本人のために危険を覚悟の上で、志願して機長としてフライトをしてくれた、トルコエアーの当時機長のオルファン スヨルジュ様が、2013年2月24日86歳の生涯を終えられました。

イラク フセイン大統領が、民間航空機と言えども攻撃対象とすると発表しその開始時間が迫る中、自国民(トルコ国民)が陸路を自力避難しているというのに、日本人を助けるために操縦桿を握ってくれたオルファン スヨルジュ機長。

2010年 25年の時間が経過した中、駐トルコ日本領事館(イスタンブール)の領事の計らいで再会を果たすことができました。
オルファン スヨルジュ機長は、やさしい目で私たちを迎えてくれました。
温かくやわらかい手で握手をしてくれました。
そして、テヘランからの日本人救出の際のクルーは最強のメンバーが集まったと胸を張って言っておられました。

私たちの命の恩人です。
オルファン スヨルジュさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

合掌


2010年駐トルコ領事館領事公邸にて(左から沼田さん、スヨルジュさん、高星さん)






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<2013年5月11日 掲載>

第14話 『串本町へ』
文:高星輝次さん

 2009年4月30日一緒にテヘランを逃げ回った当社営業部の服部氏の計らいで、日比谷にて当時の当社中近東営業部イラン班OB・OGの会が開催されて、その時にNHK和歌山の取材を受けました。「次のイラン戦友会は串本町で開催かな」などと軽い冗談を言っていました。でもそれは、「できたらいいね!」であって和歌山は遠い、和歌山で開催していったい何人が集まれるのか?単なる冗談で終わって真剣に和歌山での戦友会開催などは考えてもいなかった。

 2009年の12月に入って、沼田さんから驚きのメールが届いた。
2010年6月2日〜6月5日にかけて、和歌山県串本町で「エルトゥールル号遭難慰霊120周年記念式典」を開催するので、わがイラン戦友会には1985年3月19日にトルコエアーでのテヘラン救出劇の時の戦友会メンバーの心境、思い出等を座談会形式で会場に来ている人達に伝えてほしいという、串本町からの依頼がきたというのだ。この日のイベントは2部構成になっていて、一部は我々の為にトルコエアーを飛ばすことに奔走していただいた伊藤忠商事イスタンブール支店長の森永氏の講演が予定されているとのことであった。

 沼田さんと対応について相談をして、とりあえず6月2日から5日の平日のイベントであるけれども行ける見込みのある方がいるのかどうか、メンバーに聞いてみようということとなった。結局12月の段階で来年の6月に会社を3日も休んでこのイベントに参加すると言い切れる方はだれもいなかった。私はと言えば大変興味を覚え、上司に来年の6月にこのイベントに参加したい旨の相談をした。上司はなかなか話のわかる人で「元はと言えば、会社の業務出張中に起きたこと、まるっきりプライベートなことでもないので、民間親善大使として是非参加してください」ということとなった。

 既に定年退職をされている沼田さんと?星の参加はほぼ確実となった、そしてもう一人服部さんが、業務の都合さえつけば参加したい。ただし12月の時点では業務の都合が付けられるかどうか見通しが立たないということであった。こうして2月の段階で、イラン戦友会からは2名ないし3名が参加できる予定という回答を串本町に送った。
 串本行きを決めてから、沼田さん・服部さんと3人で何度か会って、串本町で話すことを相談したり、なによりも25年前のもう薄れかけてしまった記憶を3人で出し合い、つなぎ合わせて行った。

 3月に入り具体的な日程・スケジュールなどが串本町の担当者から連絡が来るようになっていった。当初座談会という話であったが、参加可能なのは2名ということで、イラン戦友会の座談会ではなく、他の方も交えたシンポジウムという企画に変わって行った。
 4月に入ると更に事情は変化し、エルトゥールル号の遭難とテヘラン救出劇の二つを映画化する構想が持ち上がってきており、この映画化を皆さんに認知していただくための、世論作り的なパネルディスカッション形式で行われることとなった。イラン戦友会としては沼田さんが代表で参加し、冒頭にご挨拶をさせていただく時間をいただいた。沼田さんは大変でしょうが、私自身は大変肩の荷が軽くなり、串本行きを楽しみにしていた。
 最終的に、服部氏も2日目から合流できることとなり、私の妻も同行することとして4人で串本を訪ねることになった。

 2010年6月2日羽田空港より、南紀白浜空港へ向かって出発です。羽田空港の32番ゲートへ行くと白浜行きの飛行機なのになぜかたくさんの外国人?どうしてこんなに外国人が多いの?と疑問を感じつつ搭乗した。そして白浜空港、空港全体がエルトゥールル号の120周年記念イベント、日本・トルコ友好120周年記念イベント一色になっていた。

 出発前に串本町役場の担当者からは。白浜空港に到着後はバスが待っていますので、このバスを利用して、串本ロイヤルホテルまで来るように言われていた。失礼ながらその辺の温泉旅館の送迎バスのイメージでマイクロバスが待っているのかと思っていました。ところが空港には、この式典関係者専用の待合室が準備され、串本町のみならず和歌山県県庁職員の方もたくさん来ていて私たちを迎えてくれた。建物の外には大型観光バスがたくさん待機していて、このバスにお世話になり一路串本町へ向かった。

 串本町の南紀串本ロイヤルホテルに到着したのは21時近くなった。ここでも専用の受付が用意されていて、夜の21時のチェックインにも関わらず夕食を準備して待機していてくれた。
 羽田空港でお見かけしたたくさんの外国人も一緒である。ということはこの方たちも日本・トルコ友好120周年記念イベントの参加者の様である。すごいイベントに参加したものだと、その規模の大きさを感じ始めていた。

 一夜明け、ホテルの窓から外を見ると快晴である。そして昨夜は夜の到着だったので気が付かなかったが、ホテルは高台の素晴らしいロケーションに建っていた。目の前に真っ青な海がきらめき、左手には名勝橋杭岩が広がり、右手にはエルトゥールル号の遭難した島へ渡る「くしもと大橋」が見えていた。そして目の前には今日の海上慰霊祭に使われる船だろうか、自衛隊の船らしきものが待機している。
 朝日の燦々と差し込む明るいホテルのレストランで朝食をいただきながら、今日のイベントへの興味が一層高まって行った。

第15話につづく・・・


南紀串本ロイヤルホテルから、串本大橋を望む






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<2013年8月31日 掲載>

第15話 『日本トルコ友好120周年 洋上追悼式』
文:高星輝次さん

 2010年6月3日、和歌山県串本町。
 今日は、日本トルコ友好120周年事業の一つ、洋上追悼式に参加させていただく日である。宿泊先の南紀串本ロイヤルホテルは露天風呂から太平洋に昇る朝日が見られるとのこと、朝風呂をと思っていたが寝過してしまい、朝風呂は叶わなかった。6時には朝食をとり、7時にホテルのロビーに集合となった。
 ホテルからは観光バスで、洋上追悼式の為の船に乗る港へ向かうこととなった。この洋上追悼式は当初私たちには参加要請は無かったものの、大変興味があり串本町役場の事務局にお願いして参加させていただいたものである。

 港に付くと沼田さんを待ちかまえる新聞記者がいた、船に乗っても「沼田さんですよね」と声をかけてくる方がいる、沼田さんはこの町ではすっかり有名人である。
 港からは海上保安庁の巡視船「みなべ」に乗船し、沖に停泊している海上自衛隊護衛艦「せとゆき」に乗り換えて洋上追悼式の場所に向かうこととなっている。
 海上自衛隊の護衛艦は串本町の港には船が大きすぎて接岸できないのであろう。

 快晴の抜けるような青空の下、7時55分に海上保安庁の巡視船「みなべ」は岸を離れた。8時10分には海上自衛隊の護衛艦「せとゆき」に乗船、「せとゆき」が進みだしてすぐ、艦内の案内が始まった。こちらも興味深く見学をさせていただいた。少し船が進んだころ、右手に白い灯台が見える岬が近づいてきた。ここが紀伊大島樫野崎灯台であろう。緑が豊かな岬の上に白い灯台があるが、海面近くはごつごつした岩になっている。大小の岩が海水面から顔を出している。この岩場でエルトゥールル号が遭難したのだろうと、身ぶるいを覚える。

 9時、「せとゆき」の一番上の甲板で洋上追悼式が開始された。
式次第は、
一、開式の辞
一、黙祷
一、追悼文奏上
一、御献花(宮家)
一、献花
一、儀仗隊拝礼
一、閉式の辞、となっている。

 ここに、洋上追悼式追悼文集から、追悼文を記載しておく。

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 駐日トルコ共和国特命全権大使セルメット・アタジャンル閣下
 エルトゥールル号受難120周年慰霊式典スピーチ原稿

寛仁親王殿下
彬子女王殿下
ご臨席の皆様

 本日は皆様と1890年9月16日にこの海にて殉難したトルコ海軍の将兵を追悼し、彼らから我々に託されたトルコと日本との友好の絆を更に強固なものにすべく決意を新たにするため、ここに参りました。

 この悲痛な事故を思い出すごとにこみ上げてくる悲しみの一方で、この悲劇が両国民の間の絶えることの無い友情の礎となったことに心慰められる次第でございます

 エルトゥールル号の訪日と事故後、明治天皇陛下、そして日本国民と日本海軍から我が将兵に示されたご援助と見返りを求めないご助力、中でも串本町民が一丸となり遭難者を献身的に介抱し、殉職者の魂を弔ったご恩を、我々トルコ国民は永遠に感謝の念をもって胸にとどめておくことでしょう。

 エルトゥールル号遭難の情報が伝わるや否や、戦艦「やえやま」を派遣し、初の追悼式を執り行ってくださり、また、生存者を戦艦「ひえい」および「こんごう」にてイスタンブールまで送り届けることに尽力くださった、旧帝国海軍、現海上自衛隊の皆様の寛大さに感謝と敬意を表します。

 1929年6月3日に、我が殉難将兵を慰霊された昭和天皇陛下、以降、追悼式を毎年執り行ってくださる日本国民に心より感謝を申し上げます。
私の詞(ことば)を終えるにあたり、ここ友好国日本の海に死してなお、両国友好の礎となった我が殉難将兵の偉業をたたえ、哀悼の意を表します。英霊が祖国の土で眠るように、この地で安らかに眠ることを祈ります。

 英霊に思いを馳せる今日この日に、ご臨席賜りました寛仁親王殿下、彬子(あきこ)女王殿下におかれましては、心からの感謝を申し上げます。
 我が殉難将兵を追悼するこのような盛大な式典の開催に尽力下さった串本町役場の方々、串本町民の皆様、日本国海上自衛隊の方々、日本国民の皆様へ、トルコ国民とトルコ海軍を代表いたしまして、敬意を表します。
ありがとうございます。

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<トルコ軍艦「エルトゥールル号」殉難者120周年洋上追悼式追悼文

 トルコ軍艦「エルトゥールル号」殉難者120周年洋上追悼式に際し、トルコ軍艦殉難将兵587柱の御霊に対し謹んで哀悼の誠を捧げます。
 軍艦「エルトゥールル号」は、帝都イスタンブールからの約11カ月に及ぶ長途の航海を経て、明治23年(1890年)6月横浜に寄港し、同月明治天皇に拝謁し皇帝親書を奉呈するなどオスマン・トルコ帝国とわが国との親善の大役を果たしたのち、同年9月15日勇躍帰国の途につくこととなりました。しかしながら、翌16日夜半に至り熊野灘において強烈な台風に遭遇し、オスマン・パシャ司令官をはじめとする乗組員一同の奮闘もむなしく、ここ樫野崎沖にて座礁、587名が尊い命を落とすこととなったのです。

海軍軍人として、海に生き海に死すのが宿命(さだめ)とは言え、祖国から遠く離れた異国の地において、非命に斃れることとなった「エルトゥールル号」将兵の無念な思いは察するに余りあります。
 その一方で、樫野崎灯台下に流れ着いた乗組員は、急を聞いた大島村の住民総出の救助と献身的な介抱により、69名が救出されたのです。さらに、事件は強い衝撃をもって受け止められ、わが国は朝野を挙げて弔意を示すとともに義損活動を行い、そして「エルトゥールル号」の生存者は、帝国海軍軍艦「金剛」「比叡」の二艦をもって祖国に送り届けられたのです

 事件は真に痛ましく悲劇的なものではありましたが、「エルトゥールル号」の尊い犠牲と大島村民の献身に始まった両国の友好は、様々な分野に広がり、尚一層強固なものとなっております。
 本式典に寛仁親王殿下、彬子女王殿下をお迎えしていることは、両国の深い縁を物語っておりますし、昭和60年(1985年)3月のイラン・イラク戦争の開戦に伴う、邦人215名のトルコ航空機によるイランからの救出などは、100年来の貴国のわが国に対する深い思いを物語る証左でもあります。

 海上自衛隊とトルコ海軍は、長年にわたり艦艇の訪問や人的交流を続けております。本日ウール・イイト トルコ海軍司令官も参列されておりますが、「エルトゥールル号」殉難将兵の御霊に報いるためにも、海上自衛隊は将来にわたり海軍間の良き関係を続け、両国の友好親善の一端を担っていく所存であります。
 終わりにあたり、「エルトゥールル号」殉難将兵のご冥福を衷心よりお祈りいたしますとともに、追悼式典の開催にご尽力されました串本町及びトルコ共和国大使館に対し敬意を表し、私の追悼の詞(ことば)といたします。

平成22年6月3日  日本国海上自衛隊呉地方総監    海将 武田 壽一

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 海上自衛隊 海将武田様の「昭和60年(1985年)3月のイラン・イラク戦争の開戦に伴う、邦人215名のトルコ航空機によるイランからの救出などは、100年来の貴国のわが国に対する深い思いを物語る証左でもあります。」という言葉を聞いた時はもう涙をこらえられませんでした。
 戦火が激しくなり、いよいよ今日・明日の命すら分からなくなっていた時、トルコエアーの航空機が日本人救出のために危険を冒してテヘランに飛んできてくれた裏には、更にさかのぼること95年、ここ樫野崎沖で発生した悲しい出来事と、それに献身的に介抱した大島村の皆さんの行いがあってこそのことだったのです。  日本とトルコの二つの歴史的出来事の一方の当事者として、この日本トルコ友好120周年の追悼式に参加できたことは、本当に感謝の気持ちでいっぱいですし、背中がぞくぞくとする感動の連続でした。

 今回の手記はちょっと重たすぎる内容でしたが、こぼれ話を二つ。
 朝ホテルで朝食をしつつ、何気なく見た海辺の風景。海上保安庁らしき船が停船状態で勢いよく水しぶきを上げている。その姿は全力でスクリューを回しているのに一向に船が前に進まないように見えた。座礁した「エルトゥールル号」の追悼式の日に海上保安庁の船が座礁ではしゃれにもならない話である。
 乗船してから海上保安庁の方に今朝見かけた光景の話をすると、この船はスクリューではなく、ウオータージェットと言って水を勢いよく吹き出し推進力を得るタイプの船だそうで、警戒態勢の為、いつでも全力疾走できるようにウオータージェットは吹き出しつつ、吹き出し口のすぐ後ろにその水を遮る板を置いて船を停止させているそうです。いざという時にはこの板を取り除くことですぐに全速力で進むことができるそうです。座礁?なんてとんでもない誤解をしていました。聞いてみて良かったです。

 もうひとつは、海上保安庁巡視船「みなべ」から、海上自衛隊の護衛艦「せとゆき」に乗り移ってからも、海上保安庁の船が自衛隊の護衛艦の周囲を取り巻いて一緒に移動をしてきました。自衛隊の方にあの船は何をされているのですか?と聞くと「この船を護衛しています」とのこと。海上自衛隊の護衛艦を海上保安庁の巡視船が護衛?と思いましたが海上自衛隊の船に不埒な輩が何かしてきたとき、自衛隊は火器を持って応戦することはできないのですね。陸上なら警察が、海上では海上保安庁が国民の財産・生命を守るわけですね。 納得 納得の回答でした。

 本文に掲載させていただきました、駐日トルコ共和国特命全権大使 セルメット・アタンジャル閣下の追悼文、ならびに、海上自衛隊呉地方総監 武田壽一海将の追悼文につきましては、式典当日配布いただいた追悼文集より転載禁止等の注意書きがないことを確認して、転載させていただきました。

第16話につづく・・・


洋上追悼式で献花する沼田さん






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<2014年1月26日 掲載>

第16話 『日本トルコ友好120周年 アタチュルク像除幕式』
文:高星輝次さん

 2010年6月3日午前は、エルトゥールル号殉難将士洋上追悼式典に参列させていただきました。120年前にエルトゥールル号が遭難した現場を見て、海上自衛隊海将武田様の「昭和60年(1985年)3月のイラン・イラク戦争の開戦に伴う、邦人215名のトルコ航空機によるイランからの救出などは、100年来の貴国のわが国に対する深い思いを物語る証左でもあります。」という追悼の言葉を聞いた時はもう涙をこらえられませんでした。
 しかし考えてみれば、いくら悲惨な海難事故だったとはいえ、120年も前の出来事であります。その追悼式典でボロボロと涙を流している中年男性二人(沼田さんと私)の姿は、他の人にはきっと奇異な光景に見えたのではないでしょうか。

 11時に洋上追悼式から港に戻ってきました。陸に上がって冷めやらぬ興奮を鎮めながら地元の美味しい魚のお寿司をいただきました。そして予約しておいたレンンタカーを借りて、潮岬灯台を見学し、午後のアタチュルク像除幕式そしてエルトゥールル号殉難将士陸上追悼式に参列します。潮岬灯台は私にとっては台風接近の時のテレビのニュースの中継場所という印象です。それだけ台風接近時は本州最南端の太平洋に突き出たこの地の荒れ方はすごいということでしょう。

 レンタカーでくしもと大橋を渡り、紀伊大島に進んでいきます。樫野崎灯台の少し手前の特設駐車場に車を止めて徒歩で式典会場へ向かいました。
会場の手前に「トルコ記念館」があり入ってみました。トルコ記念館の屋上には、眼下の海の写真のパネルがありエルトゥールル号の遭難現場がマーキングされています。本当に陸地と眼と鼻の先で遭難したのです。いくら荒れ狂った海とは言え、そこは勇敢な海の男たち。遭難が昼間だったらもっともっと多くの人が助かったのではと思われました。後で教えられたことですが、エルトゥールル号は浸水により機関が水蒸気爆発を起こしたとのこと、一瞬にして沈没して行ったのでしょうか。

 トルコ記念館の見学を終え、アタチュルク像の除幕式会場に向かいます。トルコ建国の父と言われるケマル アタチュルク(1881〜1938)はトルコの初代大統領です。
 
アタチュルクの像は、新潟柏崎市に1996年柏崎トルコ文化村を開園させた時にトルコ本国から贈られたものです。高さは4.2m 重さは4トンと言われています。ところが柏崎トルコ文化村は2001年メインバンクの破たんなどにより資金繰りが苦しくなり閉園に追い込まれました。

 2002年には柏崎市が取得し、別の民間企業に貸し付けを行い2002年7月に再オープンしたものの、2004年11月には2回目の閉園に追い込まれた。その後施設は再度売却され結婚式場として営業を開始したようですが、2007年7月16日の新潟中越沖地震に見舞われ、像が載せられていた台座にも被害が及び危険であるとの状況から台座からはずされたようです。その保管状況などをめぐりいろいろ物議をかもした経緯もあるようですが、その内容についてここで語るつもりはありません。ネット上で検索する限り、色々な立場、価値観の方がそれぞれ色々な(全く相反する意見を含め)意見を述べられています。仮に事実は一つとしても、それぞれの主観でとらえた場合その反応はこれだけ変わるということだと思います。

 その後、新たな設置場所を求める草の根の署名活動などもあり、またトルコ大使館も時の所有者に対して像の寄贈を求め、串本町への移設を申し入れされた経緯もあるようです。
串本町は町議会で串本への受け入れを決定し、これに対し日本財団が全面的に協力して、今回の移設となったようです。像はいったん東京に運び、修復作業の後串本町の紀伊大島の地に設置されたようです。日本財団のホームページによると、高速道路を使っての輸送は許可が下りず、交通量の少なくなる深夜に一般道路を使って輸送されたようです。

 像は、樫野崎灯台とトルコ軍艦遭難者慰霊碑の中間地点の見晴らしの良い公園の中にエルトゥールル号の遭難現場の方に向かって建てられています。その姿は、エルトゥールル号の殉難将兵たちの魂にも響いているような思いがしてなりません。

 アタチュルク像の除幕式は、洋上追悼式典に続いて寛仁親王殿下、彬子女王殿下を始め、日本財団の笹川会長、和歌山県、串本町の関係者など多くの人たちが集まり開催されました。除幕までは真っ白な布(絹?)で台座を含めると6mほどある像全体が覆われて、快晴の真っ青な空の下で、初夏の風にはためいていました。とても美しいコントラストでした。除幕の紐を引いていたのは、トルコ共和国全権大使、この像の制作者、日本財団笹川会長、和歌山県知事、串本町長の5人だったとお見受けしました。
 除幕のあと関係者の挨拶があり、その後トルコ軍楽隊の演奏が始まりました。初めて生で見るトルコ軍楽隊の演奏にも圧倒されました。

 アタチュルクの像は色々紆余曲折がありましたが、実に納まるべき所に納まったという感じがいたしました。
 さあ、次はトルコ軍艦遭難者慰霊碑前での、陸上追悼式典です。そばにオスマンコナックというトルコ料理のお店があるので、トルコの伸びるアイスクリームをいただいて会場に向かいました。

第17話につづく・・・


アタチュルク像除幕の瞬間





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