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店主:JUNKO
店長について・・・
ヨーロッパとカフェラテと美男子をこよなく愛する日本人女子です。
過去にあちこち旅をしてきましたが、このショップでは、特にご縁があり、現地に仲間がいる「ポルトガル・イタリア・トルコ」の商品をそろえることにしました。
仲間の協力を得て、現地情報もできるだけ多く発信していきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
JUNPERIALとは・・・
もともとショップ名は、ポルトガル・イタリア・トルコの共通点から付けたかったのですが、なかなか良いモノがみつけられませんでした。
しかしある日、自分にとって最大の共通点を発見しました。「3ヶ国とも自分の大好きな国であること!!」
そんなわけで、「自分の好きな国が集まった帝国」→「Junko帝国の店」→「Junko Imperial Shop」→「JUNPERIAL SHOP(ジュンペリアル ショップ)」となったのです。


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イラン・イラク戦争 奇跡の救出劇
〜日本・トルコ友情物語〜

−沼田凖一さん編−


序文
店長 JUNKO

1985年3月17日、イラン・イラク戦争のさなか、サダム・フセイン元イラク大統領は、「48時間後、イラン上空を飛ぶすべての航空機を撃墜する」と突如宣言しました。 当時、日本の航空会社にはイランへの路線がなく、安全も保証されないため、政府は救援機を出すことをためらっていました。他の国の航空会社は、自国民を優先するため、在留邦人は取り残されていったのです。
しかし、タイムリミット直前に、ついに救援機が。でもそれは、日本の航空機ではなく、トルコ航空でした。215名の日本人を乗せ、危機一髪のところでイランを脱出したのです。
でも、なぜトルコの航空機が日本人を救ってくれたのでしょう?

・・・時は遡ること95年前、1890年(明治23年)に、オスマントルコの軍艦エルトゥールル号は、公式親善のため来日しました。しかし、帰国の際、現在の和歌山県串本沖で、台風により沈没してしまったのです。乗組員のうち581名が命を落とす大惨事となりましたが、村民たちの手厚い救護のおかげで、69名が無事トルコに帰ることができました・・・

元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が、次のように語っています。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空が飛んだのです」

95年後のトルコの恩返しでした。
この2つの出来事は、100年近くも時を隔てていますが、人々の善意や感謝の心によって、しっかりと結びついているのです。

さて、上記のイラン・イラク戦争時、トルコ航空によって命を救われた日本人215名の内のお一人が、今回の連載企画で記事を書いて下さる沼田凖一さんです。沼田さんは、自分たちを救ってくれたトルコ人に、そしてその大きなきっかけを作ってくれた串本町の人々に、いつも強い感謝の気持ちを抱いていらっしゃいます。
実は、私と知り合ったのも、沼田さんの“感謝による行動”が記事に載っていたのを、偶然インターネット上でみつけたのが、きっかけでした。
「1985年のイラン・イラク戦争時、トルコ政府が出した航空機によってイランから脱出した東京都羽村市の元会社員、沼田凖一さんが、『エルトゥールル号の遭難時に献身的にトルコ人を助けた串本町の方々のおかげ』と感謝し、故郷や応援したい自治体に寄付する“ふるさと納税制度”で、同町に寄付をしていたことが分かった。」(紀伊民報より)
この記事を見て、どうしてもお話を聞いてみたくなった私は、串本町の役場にお願いして、沼田さんに連絡を取ることができました。それから今日まで、沼田さんにはあらゆる面でサポートして頂いています。今回のこの連載への執筆も、お忙しい中快く引き受けて下さいました。

このページは、“イラン・イラク戦争からの救出劇”と“エルトゥールル号の事故”を、まだ知らない方はもちろん、すでにご存じの方にも、詳しく知っていただこうと設けたものです。 沼田さんという、実際の体験者が記事を書くことで、当時の生々しい恐怖心や、溢れるような喜びなどが、リアルに伝えられることと思います。
一人でも多くの方がこの記事を読んで、トルコという国に関心を持ち、2国間の友好へとつながっていくことを心から願っています。
それでは、沼田さん、よろしくお願いいたします。

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<2011年07月26日 掲載>

第1話 『早春のテヘランに赴く』  
文:沼田凖一さん

1985年、この年はイラン市場の技術指導を担当してから7年目、5回目の技術指導でした。 この時は、日産自動車のイランでのKD工場サイパ社の増産と品質向上が目的で、日産の工場から増産指導技術者2名と品質向上技術指導者2名と、私が総合技術指導兼コーディネーターで5名のチームで臨みました。期間は3ヶ月で2月22日、日本を発ちドイツ・フランクフルト経由でイランに入りました。

イラン・テヘランに着いたのは2月25日早朝で、皆張り切ってやろうという気持ちが高まっていました。 私は1983年11月からこのプロジェクトの地盤固めをして来ていましたので、いよいよ本番という気持ちで燃えていました。私の気持ちを他の4名も受け止めてくれてチームとしての意気は盛り上がっていました。

早速現状把握そして具体的な実行計画を策定し、3月に入り具体的な技術指導をスタートしました。ところが、3月6日突然イラクがイランの地方都市アフワズを爆撃したのです。3月9日出社しましたら工場は大騒ぎになっていました。初めのうちは何を言っているのか判りませんでしたが、よくよく聞いてみましたら、3月6日にイラクがイランの都市を爆撃したのでイランはきっと報復するだろうと言う事でした。そして、3月9日彼らが言っていた通りイランはイラクのバスラを爆撃したのです。

でもこの時は、あんな短期間であれ程までの報復合戦になるとは夢にも思いませんでした。イラン・イラク戦争は1980年から始まっていましたが、これ迄は国境での地上戦だったので、まさかたったの22日で逃げ帰ることになる等とは思いもしませんでした。
第2話につづく・・・


テヘラン赴任中の沼田さん




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<2011年08月12日 掲載>

第2話 『ミサイル飛来 混乱のるつぼと化したテヘラン』  
文:沼田凖一さん

1985年のイランはイスラム革命後の混乱も落ち着きを見せ始め、市場として大きな期待を持たれ始めていました。そこで、世界各国の多くの企業がイランに調査団や新事業獲得の為に協力関係商社、会社・営業部門、市場サービス部門などを送り込んでいました。 勿論日本からも、我々の様な現地KD工場技術指導技術者などをはじめ、多くの日本人も行っていたので、テヘランには日本人だけでも500人以上いて、日本人学校も有りました。 そんな中、イラン・イラク戦争が報復都市爆撃に拡大したのですからパニックになったのは当然だったのです。

3月6日イランのアフワズの受爆を境に段々大都市への報復爆撃に発展し、3月10日にはイランの第2の都市イスファハン等に爆撃が有り、何時テヘランに来てもおかしくないところまでエスカレートしていました。日本大使館からは不要不急の人は国外に出る様にという通告が出されましたので、ヨーロッパ便に席が取れた人は次々国外に脱出して行きました。 地方に疎開する人もいました。我々の協力商社のN商社も我々の為にテヘランに乗りいれているヨーロッパなどの航空会社のオープンチケットを3通から4通準備し、空席を捜して駆けずり回っていました。しかし、どこの航空会社も自国民優先で空席がなかなか出ません。 数人分の空席が出ても、当然子供や女性を優先に割り当てるので我々にはなかなか回って来ません。

そうこうしている内に、3月12日とうとうテヘランに空爆が有ったのです。然も一発は日本人が最も多く居住している、日本人学校の直ぐそばに着弾したのです。N商社の社宅もこの地区に有りました。この時の模様を工場から来ていた技術者の一人は「ベッドに寝ていたら、ものすごい音がして気が付いたら床にいたが、何だかよく判らずにきょろきょろ辺りを見ましたが何も有りませんでした。何が何だか訳が判らず暫くボーッとしていたら、周りが大騒ぎになって来て、やっと爆撃を受けた事が判った。自分はベッドからはじき飛ばされていたんです」と言っています。ですからこの時は恐怖心も湧いて来なかったみたいですが、時間が経つにつれて恐怖心がどんどん大きくなっていったのだと思います。 人間、想像を絶する事が起こった時は恐怖心も、悲しみも、喜びも直ぐには出て来ないと言う事だと思うんです。
第3話につづく・・・


当時のテヘラン



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<2011年08月30日 掲載>

第3話 『早く脱出したい、しかしどうにもならないこの焦燥感の中、3月17日が』 

文:沼田凖一さん

3月12日の空爆のミサイルはN商社のオフィスのすぐ近くにも着弾したので、N商社の社員が出勤途中にそこを見に行ったそうです。歩いていたら少し小高くなっていた所が有ったので、その上に登りミサイルの着弾した所を探してきょろきょろしていましら、近くにいた人がミサイルが着弾したのは、お前が乗っているそこだよと教えてくれたそうです。そう言われて良く見るとそこはビルディングが建っていた所で、そのビルディングが跡形も無く崩れ落ちてがれきとなって少し小高くなっていたと言うのです。これじゃ人間はひとたまりも無いと思ったと言う事でした。

もう工場に行くのは危険という事でN商社社宅に待機する事にしました。しかし、社宅は部屋数が足りなく全員がここに一緒に住居する事が出来ない上、もしミサイルの直撃を受けた場合、全壊となり人的被害は避けられないと思いました。そこで、皆で話合って、全員を収容出来、地下室が有る所を捜そうと云う事になりました。地下室なら直撃を避けられるのではないだろうかと考えたからです。この条件に合う所として下町に有るラマテア・ホテルが良いだろうという事になりました。

翌3月13日になって、16日か17日のアエロフロートだとチケットが取れるかも知れないという情報が入って来ました。この機会を逃すともうチャンスが無いかも知れないという不安が有りましたし、それとヨーロッパ航空便よりアエロ・フロートが安心ではないだろうかという考えが有りました。それは如何にイラクと言えどもソ連の航空機を撃墜したら何をされるか判らないからやらないのではないかという期待の考え方が根底に有りました。そこで、アエロフロートのチケットも入手する方向でN商社が動いてくれました。

12日の爆撃でベッドからはじき飛ばされた日産の技術者はもう限界になっていました。夕食をN商社社宅で済ませ、皆一緒に移動し、午後7時にはホテルに落ち着きました。これで全員が一緒にいるので、何時でも一緒に行動出来る状況が出来ました。しかし、これで問題が解決した訳では無いのです。飛行機の空席が取れなければ国外に脱出できません、相変わらず、N商社の社員はテヘラン中のヨーロッパ航空会社のオフィスを駆けずり回り空席を捜してくれていました。

こうしている間にも時間はどんどん過ぎ、3月17日になってしまいました。この日の夕方、イラク・フセイン大統領は戦局の硬直状態に苛立ち「3月19日20時30分以降イランの空域を飛ぶいかなる航空機も安全を保証しない」という悪魔の警告を出しました。在テヘラン日本大使館からは直ちに在住日本人に知らされました。しかし、我々はどうする事も出来ませんでした。飛行機の空席が取れる事を待つしか無いのです。イラク・フセイン大統領の警告は関係の無い国の民間機迄撃墜すると云うもので、普通考えられない事でした。これを聞いて我々はヨーロッパ航空会社は欠航してしまうのではないかと思いました。もはや航空便での脱出は不可能かと思い絶望感に追い込まれました。
第4話につづく・・・


当時のテヘラン市内



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<2011年09月23日 掲載>

第4話 『友情の翼・トルコ航空』 
文:沼田凖一さん

タイムリミット一日前の3月18日になっても乗せてもらえる飛行機は一向に見つかりませんでしたが、思いもしなかった朗報が入って来たのです。それは、私達が技術指導していたKD工場の一社、ザムヤッド社の技術指導に来ていたスエーデェン・ボルボ社の技術者がバスでトルコに脱出するので皆さんも一緒に行きませんかと誘ってくれたのです。 私達は直ぐに荷物をまとめて、待ち合わせ場所に駆け付けました。しかし、私達は車では国外に出る事は出来なかったのです。それは、私達は飛行機で国外に脱出する事ばかり考えていましたので事前の出国手続きをしていなかったのです。ですから、このバスでトルコに脱出しようにも国境を越える事は出来ないのです。折角のチャンスを泣き泣き諦めるしか有りませんでした。

そしてとうとう3月19日、タイム・リミットの日がやって来てしまいました。それでもN商社の社員はその日もヨーロッパ航空会社に私達の為に席を分けてもらえる様頼みに回ろうと、夜の明けるのを待って起きていてくれたのです。 すると、夜明け前に日本大使館からトルコが救援機を出してくれるとの情報が飛び込んで来たというのです。皆小躍りして喜びました。しかし、冷静になって考えてみると、どうしてトルコなのか判らない、日本からの救援機は来ないし、ヨーロッパの飛行機にも乗せてもらえないし、信じられない、そんな気持ちでした。しかし、考えていても仕方が無い、兎に角行ってみようと云う事になり、N商社の社員の一人がトルコ航空テヘラン支社にチケットを買いに走りました。

その間私達は何時でも空港に行ける様に荷物をまとめ、玄関横に並べて、トルコ航空に行った人からの連絡を待ったのです。しかしなかなか連絡が来ません。朝6時にホテルを出て、10時半ごろようやくチケットが買えそうだという一報が入ったのです。早速N商社の社有車で空港に向かったのですが、日本人が空港に向かった丁度その頃、各国の取り残された人達は自国の救援機に乗る為に空港に押し寄せたのです。空港敷地内はかなり広いのですが、ものすごく多くの人が集まって来たので、大混雑に成り、空港ビルに辿り着くのは容易では有りませんでした。 やっとの思いで空港ビルにたどり着いたのですが、肝心のチケットを買いに行った人が帰って来ません。結局、チケットを買いに行った人が空港に着いたのは午後2時過ぎです。

ここからようやく荷物チェックです、ここでもまた時間が掛りました。それは一人一人のスーツ・ケースを開けては中に手を入れ確認するのです。それが終わると次は、ショルダーバッグ、そしてハンドバッグと、全部中をのぞいて確認するのだから時間が掛る事この上有りません。 やっと荷物チェックが終わり、トルコ航空チケットカウンターでチェックイン、この時はイランでは今迄になかった位素早く処理してくれて、搭乗券を渡してくれました。

搭乗券さえ貰えばもう直ぐにでも飛行機に乗れる、そう思いました。ところがパスポートチェックが一向に進まないのです。ここでも又とんでもないトラブルが起こっていたのです。なんと、アエロフロートに乗ろうと空港に駆け付けた、ロシア人が事も有ろうにパスポート・コントロールの窓口2か所のうちの1か所を占拠してしまったのです。こんな暴挙を許してはいけない、N商社の自動車部責任者が猛抗議をしてくれたのですが、多勢に無勢、全く聞き入れてくれませんでした。 結局、もう1か所の窓口に並んでパスポートチェックを受けるしか有りませんでした。トルコの様に外国人の日本人の為に救援機まで出してくれる人達がいる一方、手続き窓口を占拠し、自分達だけが脱出出来れば他の人はどうでも良いと云う人達がいるのです。私はこの時以来、ロシア人は大っ嫌いになりました。今も嫌いです。

こうした苦難を乗り越えて搭乗待合室にようやく辿り着いたのです、その時、爆弾かミサイルが爆発する様な「ドォーン」という音がしたのです。私はイラクからの爆撃が始まったと思い、ここ迄来て「だめかぁ!」と身体から力が抜けて行きました。 空港ビル内には悲鳴が上がり近くのテーブルの下に身を伏せるなど一時騒然となりましたが、爆発音は一回だけで、直ぐに場内アナウンスで子供と女性が搭乗ゲイトに案内され、皆ゲイトに走って行きました。私はこの時、何で飛行機まで行ったか記憶に残っていないのです。タラップを駆け上がり機内に入り、座席に座って唯じっと出発を待ちました。機内はシーンと静まり返っていました。 暫くすると、滑走路に入り、そして滑走前のエンジンテストの音が「ゴー」と鳴り響き、滑走を始めました、ぐんぐんスピードを上げて、ふぁっと機体が浮き上がり離陸しました。機内に歓声と拍手が起こりました。飛行機はぐんぐん高度を上げて行き、眼下にテヘランの明かりが小さくなって行くのが窓越しにちらっと見えました。「ああ、助かるかも知れない」そう思いました。
第5話につづく・・・


トルコ航空機(写真提供:森永堯さん)




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<2011年10月9日 掲載>

第5話 『WELCOME TO TURKEY』 
文:沼田凖一さん

テヘラン・メヘラバード空港を飛び立ちホッとしました。しかし、何時イラクが空爆をして来るか判らないのです。空軍が勝手に航空機撃墜をするかも知れないし、イラク・フセインの気が変わって攻撃して来ないとも限りません。何しろイラクにはアメリカもソ連も後ろ盾になっているのだから怖いものは無いのです。

機内はシーンと静まり返って話声もしない。何時撃墜されるか判らない、そんな恐怖で身体を強ばらせて身動きもしませんでした。どれ位の時間が経ったのだろう、私にはとてつもなく長く感じられました。その時、機長の機内アナウンスが響き渡りました。「WELCOME TO TURKEY」次の瞬間、機内に「わあっ」という歓喜の叫びと、大きな拍手とが起こりました。 この時ほど生きている事の喜びを感じた事は有りませんでした。「ああ、これで助かった」これ迄凍りついていた血が身体中を駆けめぐりました。そして涙が止めどなく溢れて来ました。周りの人達も皆泣いています。一緒に脱出して来た仲間も皆おそらく泣いていたでしょう。今、私達はトルコ航空機の中にいるそして、まぎれも無く生きているのです。 こうして、仲間は誰一人戦争の犠牲に成らずに無事日本に帰れるのです、良かった、本当に良かった。言葉では言い表せない安堵の気持ちがこみ上げて来てホッとしている自分がそこにいました。

イスタンブール・アタチュルク空港に到着し、ここでもまた、タラップをどうやって降りたのか、到着ロビーまでどうやっていたのか覚えていません。到着ロビーの荷物受け取り場に降りる階段の上に立った時、ものすごい閃光が走り、その光の多さに驚き一瞬足がすくみました。その光の方を良く見ると、大勢の人がカメラで私達の方を撮っていたのでした。涙でかすむ 階段を一歩一歩降り乍ら、「ああ、私達はこの国の人達に助けられたんだ」「私達の無事を喜んでくれているんだ」有難う、本当に有難うと心の中で繰り返しながら荷物受け取り場に降りて行きました。 荷物を受け取り、ロビーに出ると日本の商社の皆さんや大勢の関係者の方が我々の乗るバスに案内してくれました。バスに乗っても今自分がどうなているのか判らないでいるとホテルの玄関前に停まってくれました。ホテルに着いたので直ぐにチェックインし、部屋に荷物を置いたらレストランに集合するよう確認し、夫々の部屋に行きました。荷物の重さは全く感じませんでした。
第6話につづく・・・


当時のニュース番組で




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<2011年10月25日 掲載>

第6話 『イラン戦友会の結成』 
文:沼田凖一さん

イスタンブール・エタップホテル、そこは私達にとっては天国でした。つい半日前迄の地獄から救い出してもらい、今は天国にいるのです。
私は部屋に荷物を放り投げる様に置き、そそくさと皆のいるストランに向かいました。テーブルを囲むどの顔も喜びと安堵感で晴れ渡っていました。さあ乾杯「イラン戦友会」の結成です。

ここからは、誰も彼もが浴びる様に飲みました。皆生きている事の喜びを噛締めながら。私も後にも先にもこんなに沢山のアルコールを飲んだ事は有りません。先ずはビールで乾杯、そしてトルコのワイン、その他手当たり次第でした。
朝気が付いたらベッドに寝ていました。どうやって部屋に帰って来たのか、どうやってベッドに寝たのか全く記憶が有ません。しかしここはまぎれも無く、トルコ・イスタンブール。

ゆったりと朝食を済ませイスタンブール観光に出かけます。見るもの聞くものみな平和で楽しい、この私達の命の恩人の国、でも良く知らない土地だけど思う存分羽根を伸ばそう。皆と一緒に近くを歩きまわりました。
気がついたら川の様な所の近くに来ていて橋が掛っています。何か大型トラックが渡ると壊れそうな橋です。そんな橋を見ても唯もう嬉しいんです。今日はもう何の心配もしないで思いっきり喜びをかみしめよう。そして明日はパリ経由で日本へ帰れるのです。

暫くイスタンブールの街の中をぶらぶらしていて気が付いたのは、トルコの人達は皆私達に笑顔を向けてすれ違う。トルコの人達はどうしてこんなにも私達に優しいのでしょうか。(この疑問を23年後の2008年10月17日に知る事となりました)
イラン人もまた優しい人が多かった。私達がテヘランに取り残された事を本当に心配してくれたし、一生懸命私達が被害に合わない様に気を使ってくれました。でも、イラン政府は日本人をイラン国外への救出はしてくれませんでした。 トルコもイランも同じイスラム圏では有るが政府が全くと言って良いほど違う。トルコは政教分離なのに対して、イランはイスラム教政府なのでイスラム教のトップが最高指導者となっているのです。然もこの人が言う事は絶対で誰も異を唱える者はいないのです。私にとってのイランは友達も多いし思い出の多い国ですが、トルコは私の命の恩人です。

海(ボラポラス海峡?)が見えて来た、沢山の船が行き駆っている、何と平和なんだろう。ここ、イスタンブールは自然が多く木々は生い茂り、直ぐ近くには海が見られました。という事は、さっき川の様な所と思ったのは海峡なのだろうか。 ああ、私達はこの国に助けられたんだ、何と幸運なんだろう。この事は一生忘れてはいけない、そう深く心に刻み込みました。このトルコに命を助けられ、「イラン戦友会」を結成する事になったのはこの上ない幸せな事に思いました。
第7話につづく・・・


「イラン戦友会」結成




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<2012年1月3日 掲載>

第7話 『帰国』 
文:沼田凖一さん

イスタンブールでは久し振りの休日を過ごしました、その上、命の洗濯をと云う事でパリで一日を過ごさせて頂くという粋な計らいをしてくれました。こんなにも平和で楽しい時を過ごすと、これは夢では、ないか、夢から覚めるのではないかと不安がちらっと頭をよぎりました。それならそれでいいや、この命は拾った様なものだから、そんな気持ちでパリでも思いっきり楽しみました。
夢の様に過ぎた2日間も終わり、いよいよ今日は日本へ帰る事が出来ます。人間これ程迄も変れ るものなのでしょうか。3日前までは不安と恐怖で押し潰されそうな重苦しさで先の事等考えられない程だったのに。

パリからの飛行機の中で、私は、五輪真弓の「恋人よそばにいて・・・・・」を繰り返し繰り返し何度も何度も聞いていました。あの時は何でも良かった、何はともあれ日本のものに触れていたい、そんな気持ちだったのだと思います。このカセット・テープは今も大切に私のCDラックの奥にひっそりと眠っています。

3月21日長い長い飛行機の旅の末成田に着きました、工場から出張してくれていた4名の家族の出迎えが有りました。出掛ける時は意気揚々と胸を張って出掛けたのに、意気消沈して今は何も言う事が有りません。ただ、今回の出張は結果として私が皆を巻き込んだ形になったので、ご家族の皆さんにお詫びを言わせて頂きました。
成田空港の時の事を振り返って仲間の一人は次の様に話してくれました。「私の妻は当時6ヶ月になった長女をかかえ出迎えに来てくれました。会社の総括の方が同行してくれていましたが子供が乳児だったので家から成田まで大変だったと言っていました。その他の皆さんもそれぞれ家族に会って嬉しそうでした。たしかMさんは新婚ではなかったかと思います。Aさんも奥さんが出迎えました。日本ではテヘランは戦火という報道がされていたので無事に帰って来た事を喜んで泣いているご家族の方もいました。」
私は「こんな結果になって本当に申し訳ないと心から思いました」ただ、幸いな事に全員が無事に日本に帰って来れた事、ご家族に元気なまま返してあげる事が出来た事、これは私達と行動を共にし、最後まで私達を助ける為にテヘラン中を駆け回り、在りとあらゆる手を尽くしてくれたN商社の皆さん、そして、日本の商社、日本大使館そしてこの人達の誠心誠意に応えてくれたトルコのお蔭なのです。

「さあ、家に帰って家族共々、生きている事の喜び、平和で有る事の喜びをかみしめよう」ようやく私は家に帰って来ました、でもイランで起きた事、トルコに助けられた事も含め詳しい事は一切話しませんでした。何故だろう「私の気持ちの中には、日本に見捨てられた自分が情けないという想い、家族にもその事を知られたく無いという気持ちが有りました」日が経つにつれて、少しずつはあの不安、あの恐怖は薄れては行ったものの心の傷は簡単には癒されませんでした。会社に行ってもやはりこの事は言わずにいました。怖かったとか、不安だったとか言うのは男として恥ずかしい事だという気持ちが有ったからでした。だから結局、トルコが私達を命がけで助けてくれた事も言わないまま月日が過ぎて行きました。色々有ったけれど今はこんなにも平和で安心して生活が出来る、あの時の不安、恐怖を早く忘れたいそんな気持ちが支配していました。でも、今でもこの時の事を話すと涙が出て来てどうしようも有りません。
第8話につづく・・・


トルコ航空で助けられた翌日、ガラタ橋で平和をかみしめて




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<2012年2月12日 掲載>

第8話 『衝撃の歴史を知る、エルトゥールル号の遭難』 
文:沼田凖一さん

どうしてトルコが私達を助けてくれたかの真相を知らないまま23年が過ぎた2008年10月17日、つけっ放しのテレビに偶然目が行った時、そこに放送されていた番組は「世界を変えた100人の日本人」でした。私の目はそこに釘づけになりました。その内容は、私達がテヘランから助けられた95年も前の1890年に和歌山県串本町大島の沖合で台風に遭遇したトルコの軍艦「エルトゥールル号」が沈没し、581名の乗組員が死亡、69名が救出されたというものでした。この時大島の人達を中心に献身的な救助活動をした事、当時、大島は必ずしも裕福ではありませんでした。その大島の人達は救助した69名の為に医師は治療費は取らず、村の人々は生活用品を集め怪我の治療や体力回復に並々ならない苦労をし、自分達の生活をも犠牲にしたという事でした。この大島の人達の献身的な救助活動の恩儀を感じていたトルコが、95年後の1985年3月19日、テヘランに取り残されて、身動きが取れなくなっていた日本人を救出する為に救援機を派遣して、トルコ人よりも優先して助けてくれたというものでした。

恥ずかしい話ですが、私はこの「エルトゥールル号遭難事故」の事を全く知りませんでした。1985年3月20日の日本の新聞では日本経済新聞が、「イラクの一方的警告の期限切れ直前、日本人二百十五人らを乗せた二機のトルコ航空機が緊張高まるテヘランのメヘラバード空港を飛び立った。エールフランス、ルフトハンザなど外国航空会社の特別機が次々飛び立つ中で、搭乗を拒否され続けた邦人がイラン脱出の最後の望みを託した?救いの翼?。」と辛うじてトルコの日本人に対して特別の対応をしてくれた事を報道。その他の新聞は救出の事実だけを伝えているだけで、どうしてトルコ航空が日本人を救出したのかは触れていない。 3月21日になって一部の新聞は報道してはいるものの、“日本とトルコは「安部外相が一昨年、訪問したほか、今年前半にはエザル首相(オザル首相の間違い)の来日が予定されるなど友好関係が続いているが、日本側は「友好関係の成果」としてトルコの対応を評価している。“と上から目線の報道がされていました。この報道からみても多くの日本人は何故、テヘランからトルコ航空が日本人を救出してくれたのか、その真実は知らなかった様に思われます。

私はこれを機に、日本とトルコの関係を知りたいと思い色々な資料を集めて読みあさりました。そして自分がいかにエルトゥールル号の事故の事を知らないかを思い知らされました。それと同時に、特定の地域の人達がその歴史を必死に後世に語り継いでいた事が判りました。そうした、一部の人達の努力が私の命を助けてくれたのだと判り、何としてもその人達へ恩返しをしたいと思いました。それと併せて、テヘランの地獄の淵から私を救出してくれたトルコ航空の事を多くの日本人にどうしても知ってもらう為の努力をしなければいけないと思いました。
第9話につづく・・・


救出された69名のエルトゥールル号乗組員




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<2012年3月19日 掲載>

第9話 『なぜ、日本は救援機を出さなかったか?その真実を知る』 
文:沼田凖一さん

1985年3月19日、テヘランから私を含む215人の日本人を救出したのが、トルコ航空だった事から、なぜ日本が救援機を出さなかったのかについて暫くの間論議が有りました。ここに、1985年4月3日の参議院会議録情報 第102回国会 外務委員会 第4号と、2007年10月28日中近東文化センターで行われた、シンポジウムでの関係者の発言内容を紹介します。この二つの議事録を比較熟読する事で何が真実だったのかが読み取れると思います。

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「昭和60年4月3日(1985年) 参議院会議録情報 第102回国会 外務委員会 第4号」

イラン・イラク戦争に関して少し具体的な、イランからの邦人の脱出の問題でございますね、これについて伺いたいと思います。御承知のように、イラクのイラン上空の封鎖宣言というのですか、あれは十何日ですか、以降イランの上空を飛ぶ飛行機はイラクの攻撃の対象になるというような封鎖宣言がされて、報道によりますと、数百人の邦人がテヘランの飛行場に切符を求めて殺到して一種のパニック状態になったというような報道がされているわけですが、そして結局、日航機は救援に結果としては行かなかったということになったわけでありますけれども、まずその辺の事情について全般的に承りたいと思います。

●政府委員(谷田正躬君):
 概略、テヘランにおける状況を御説明申し上げます。

●宮澤弘君:
 簡単で結構です。

●政府委員(谷田正躬君):
 イラン、テヘランに対する爆撃が三月の十二、十四日と行われまして、その時点で大使館といたしましても、できるだけ邦人の引き揚げをすることを勧奨いたしまして、十六日に大使館と日本人会との間の会合におきましてその旨が伝えられたわけでございます。ただ、その当時におきましては、まだ各国からテヘランに乗り入れている民間航空会社は全部動いておりまして、かつ、三月の二十一日からイランのお正月が始まるということで、邦人の方のかなりの数が既に休暇ということでこういった航空会社の切符を予約しておられる方が相当ございました。そういうことで、この時点におきましてはまだ事態は平静であったわけでございます。
 ところが、十七日、今御指摘のように、イランの空域を閉鎖するというイラク側の警告が発せられまして、ただこの時点におきましてもまだ十八、十九日と二日間あるからということで、まだ平静であったわけですが、ただ予期されませんでしたことは、十八日になりますと、今まで乗り入れていた各国の定期便の会社が一斉に便を取りやめるということが十八日に既に起こってしまったわけなんですね。空域閉鎖は始まりますのが二十日の夜の八時からということだったわけですので、皆さん一応十八、十九とまだ二日間の余裕があると思っておられたわけなんですが、それが実は予期しない状況に立ち至って、そこで一種のパニック状況というものが起こってまいったという状況がございました。
 それで、政府といたしましては、実は十六日ぐらいの段階からもう既にいろいろな方策を検討しておりまして、そのための方策といたしましては、まず既に乗り入れている各国の定期便を使用するということ、それからそういった国からのチャーター便も派遣できないかということも検討するというのが第一点。それから、イラン航空機をさらに増便ないしはチャーターするということ。それから、日航機の特別機を派遣するということも一つございましたし、それから最後の場合には陸路を伝って脱出する。こういったいろいろな方策を検討しておったわけでございます。
 したがいまして、各国の航空機が十八日全部一応取りやめになったという段階におきましては、我々といたしましても、早急にこの日航機派遣という状況も踏まえて、日航側との連絡も行ってまいりましたし、現地での状況というものもその辺を踏まえて検討するようにという指令は出してあったわけでございます。
 ところが、十九日になりまして、またこの各国の航空機からそれぞれ救援機というような形で再び便が復活いたしまして、その中でも特にトルコ航空が我が方からの要請を受けて特別に一台大型機を増便するという形になりまして、これに日本人を優先的に乗せるという話が出てまいりました。結局十九日の午後になりまして、これは先ほどのイラクの警告のぎりぎりの時間でございましたけれども、二機がアンカラから参りまして、これに邦人が脱出希望者はほとんどすべて乗れるという形になりましたので、そういう状況がこちらでもすぐわかりましたものですから、日航機の緊急派遣という必要はなくなったというふうに判断されたわけでございます。

●国務大臣(安倍晋太郎君):
 ちょっと申し上げますが、日航機は派遣の準備は全部整っておりましたし、最終的にはイラン、イラク両国の領空の安全についても、両国政府からこれを保障するという連絡があって、いつでも飛び出せるという形になっておったわけですが、結局その必要がなかったわけでありまして、私は宮澤さんにもたまには日本の外交も褒めていただきたいと思うのですが、これは日本の外交の一つの大きなこれまでの積み重ねの成果であったと思うんですよ。
 というのは、トルコが特別機を出したということですね。今回のテヘランのああした脱出事件で、これは日本だけじゃなくて、各国とも在留の人たちは脱出していったんですが、特別機を出したというのは、それも日本のために出したというのはトルコ航空だけでありまして、これはやはりトルコと日本のこれまで積み重ねた外交の成果であったと思いますね。トルコに対するこれまでの日本の援助あるいはまた伝統的な日本とトルコとの友好関係、そういうものを背景にいたしまして、現地における野村大使とトルコの大使との間で非常に親密な友情関係がありまして、そういういろいろの要素が重なりまして日本側の要請に快くこたえて、ああした困難な情勢の中でトルコは自分の国の人たちよりも日本の在留邦人を最優先して特別機に乗せていち早く脱出させてくれたということであって、まさにこれはこれまでの日本の外交が、そうした努力を積み重ねてきた現地の大使等の非常な涙ぐましい努力、そういうことに基づくものであって、私と してはこれはよかったというふうに大変喜んでおるわけであります。

●政府委員(谷田正躬君):
 日航救援機の派遣の点につきましては、確かに準備は我々としては万々怠りなく東京におきましては日航側と協議してやっておったわけでございますが、これをいつ、どの時期で派遣するかという問題は、確かに非常に微妙な問題であったと思います。
 特に日航機の場合には既に今度のイラン・イラク戦争発生八〇年の時点から定期便の乗り入れを取りやめておりまして、現地に全然日航の駐在員がおらないわけでございます。それで、新たにこういった事態の中で日航機が飛ぶということになりますと、安全保障の問題もありますし、それからイラン空港の施設の使用というような点につきましても、あらかじめイラン側とこれを了解に達しておかなければ問題が起こるということもございまして、我々としては確かにその点につきまして大使館側とは十分にその辺の時点の判断を誤らないようにということは打ち合わせてはあったわけでございますけれども、現実の問題としてテヘランの方から、先ほど申しましたパニック状況が起きてやはり日航機を派遣してくれと言ってまいりましたのが十八日の夜中近くなってからでございまして、その点、それからイラン、イラク側に実際の安全保障の取りつけについて働きかけを行うということを始めた関係で、若干その発動がおくれたかなという感じは持っております。
 結果といたしまして、先ほどからのお話のように、トルコ航空がチャーター機を出したということで無事脱出できたわけでございますけれども、我々としてはその点ちょっとワンポイント立ちおくれたかなというような感じを率直なところ持っております。

●国務大臣(安倍晋太郎君):
 日航としましてもそれなりに、我々が要請しましてから最大限の努力をしたと私は思います。ただ戦火の中へ飛び込んでいくわけですし、今ルートがないわけですから、そういう点でいろいろと日航内部の調整等もあったし、あるいは現地の領空の空域の保障といった問題等もあって、これは日航としても私はなかなか大変な決断であったと思いますが、全体的には全面的協力という線を打ち出してもらったことは大変日航側に感謝をいたしております。
 しかし、こういう問題はただ日航と政府とでがたがた交渉するということじゃなくて、先ほどから申し上げました、政府が政府の決断でぱっと行けるというふうな、そういう態勢をやはりこうした非常事態にはとれることが、今の日本で、これだけ海外に日本人が活動しておられる状況では非常に大事なことじゃないか、こういうふうに思っております。

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「2007年10月28日に中近東文化センターで行われたシンポジウム 『イランからの脱出〜日本人を救出したトルコ航空〜』」 (アナトリアニュース121号より)

●駐イラン野村大使:
 私がテヘランに着任したのは1983年で、この戦争は国境沿いで行われていたため、開戦直後に空襲が一度あった以外、テヘランは平穏でした。イランは、「仕掛けられた戦争を終わらせるためには仕掛けた指導者への処罰が必要である」という立場を取っていましたが、国際世論はイラクに対して同情的でした。その中で日本政府は、公正かつ中立な立場でイラン・イラク戦争に対して仲介の労をとろうとしており、イラン政府からもそれを評価されていました。
 85年3月5日頃から両国の都市攻撃が開始し、戦火は次第に激しさを増していきました。12日未明、イラク機3機がテヘラン市街を空爆、それが日本人学校の先生宅の2軒隣に落ちて5人の死者を出したことは、日本人社会に対して大きな衝撃を与えました。攻撃の激化が予想されたため、私は16日に避難勧告を出しました。
 翌17日、フセインがイラン空域を戦争空域として宣言、民間航空機も全て撃ち落とすという歴史的にも類を見ないような声明を出し、これが邦人脱出の大きな根本原因になりました。
在留邦人の生命財産の保護は国の主権として大使館の一番重要な仕事のひとつで、私の脳裏を一刻も離れることのない問題でした。外国は自国民が外国でクーデターや災害等に巻き込まれると救援機や運輸機で自国民を救出する慣例がありますが、日本は55年体制論争が続いており、当時、救援機や政府の専用機を所持していませんでした。17日にフセインが出した「イラン戦争区域宣言」を受け、私はただちに日本へ救援機派遣申請を出しましたが、本省から、救援機派遣にはイランとイラク両国の安全保障の確約を現地で取得するよう指示がありました。民間航空機の乗務員の安全確保が優先されたからですが、そのような確約は不可能でした。
 さて、当時テヘランでの外交活動は非常に緊密で、私は各国大使に会う度に、「万が一のことがあったら貴国の航空機に日本人を乗せてほしい」と依頼しますと、各国大使は、「もちろん喜んで。しかし、自国民が優先ですから、空席があれば日本人を乗せてあげましょう」と言ってくださったものです。その大使仲間で私が最も親しくさせて頂いていたのが、トルコのビルセル大使です。ビルセル大使は83年の私と同じ日に着任し、信任状を奉呈し、外交団は着任順に序列が決まるため、私とビルセル大使は外交官の行事があれば必ず隣になりました。イスラームの革命を欧米の国々は偏見を抱いているようでしたが、トルコは革命の現実を直視し、また、公正かつ公平に見ようと努めていました。ビルセル大使とは仕事上の情報交換をしたり、プライベートでも家族ぐるみのお付き合いがありました。私はビルセル大使に、「何かあったら頼む」と、会う度にお願いした記憶があります。
 さて、フセインの言うタイムリミットの前日の18日夕方、ビルセル大使から、「明日、トルコ航空機が2機来る。空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話がきました。その頃は大分空襲が激しくなっていたので、在留邦人は郊外の温泉地のホテルや、テヘラン市内の高級ホテルの地下室等に避難していました。大使館員は翌19日の明け方までかけて手分けして邦人の居所を探し、希望を募りました。そして19日の晩に2機、一つは19時15分、もう一機は直前の20時頃飛び立ったのです。この戦争に直結する邦人の犠牲者は、日本政府の手を離れ第三国のタンカーに避難し雇われていたところ、ペルシャ湾で砲撃にあわれた方一名でした。その他に犠牲者が出なかったことは、私には大変幸いでした。本当にトルコ政府とトルコ航空のおかげだと感謝しております。

●駐イラン野村大使:
 全員に連絡が取れたかどうかはわかりませんが、知人にも伝えるよう依頼し、搭乗者数を把握できたのは19日の未明でした。

●駐イラン野村大使:
 残ることは義務ではありませんでしたが、大使館員49名と共に残りました。民間企業の方でも、支店長など主だった方達は、安全である限り残っておられました。帰られた方の中にはノイローゼ気味になってしまい、休暇をかねて帰られた方もいらっしゃいました。

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この二つの議事録から明らかなように、日本政府、外務省は全く現地の状況を把握していなく、嘘八百を並べたいい訳の答弁を繰り返していることが良く判ります。そして、マスコミもまた外務省の言い訳けの答弁を鵜呑みにして報道していただけなのです。全く腹立たしくも、情けない日本側の対応がよく判ります。これが真実です。。
第10話につづく・・・

 
 



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<2012年5月6日 掲載>

第10話 『在日トルコ共和国大使館で初めてトルコの人に直接お礼が言えた』 
文:沼田凖一さん

 エルトゥールル号遭難事故の事を知って、何としてもトルコの人に直接お礼を言いたいという気持ちを抑える事が出来なくなり、在日トルコ共和国大使館に連絡を取らせてもらいました。  私の様に全くトルコに友人も知人も居ない一個人が連絡を取っても、相手にされないか、応対してくれても誰かの紹介を求められると考えていました。しかし、私が想像していた事とは全く違って、私の簡単な自己紹介と1985年にトルコ航空で助けられた日本人であることをお伝えしただけなのに、数日後の12月10日に大使館に来て頂ければ参事官が会いたいという事で、その日に大使館に来られるかどうかという事でした。  考えられない事です、勿論私は即座に返事をさせて頂きました。会って頂けるだけでも私にとっては大変有難い事なのに、大使館に招いて頂けるという、これ以上の嬉しい事は有りません。

 私にとって外国の大使館を訪問する事は初めての経験なのでどの様な事を準備すれば良いのか判りませんでした。私が考えている外国の大使館は門を一歩入ればそこは外国、だから当然その門を通れば外国に足を踏み入れる事なので、厳重なチェックが有るだろう、少なくともパスポートチェックは必要だろうし、その他にも自分の身分を証明する物が必要であろう、例えば、写真が入っている自動車運転免許証とか健康保険証、しかし、大使館に確認したところその様なものは全く必要無くただ正門を入ってセキュリティー担当者にアポイントを頂いた参事官のお名前と自分の名前を告げれば良いと云う事でした。本当に驚きました、こんな事で大使館の安全が守れるのだろうかと私の方が心配する程簡単に入館させて頂けるとの事でした。

 2008年12月10日、お約束の時間少し前にトルコ大使館に到着し入館しました。正門を入り、少し行った左手に大使館に入る入口が見えました。そこを入ったら、守衛室が有りましたので、事前に言われていた通りアポイントを頂いていた参事官のお名前と自分の名前を名乗りました。直ぐに大使館に入るオートロック扉のロックを外してくれて「どうぞ中へ」と促されて扉を開けて入りました。そこは大使館の敷地の中です。玄関を入って直ぐの所に受付が有りそこに日本人の女性が訪問者の対応をしています。

 訪問者記入リストに記入し、ロビーの椅子で待たせてもらいました。待っていると間もなく右手の扉から女性が出て来て参事官室に案内してくれました。参事官は待っていてくれて、私が入って行くと直ぐに立ち上がり握手を求めて来ました。握手をしながら名前を告げお時間を取って頂いた事にお礼を言うと、接客用ソファーをすすめられました。参事官と私がテーブルを挟み座り、秘書の方は私の隣に座ってくれました。

 早速、25年前テヘランからトルコ航空で助けてもらった事を手短に話し、心からのお礼を言いました。秘書の方がトルコ語に訳してくれて私の気持ちが直接参事官に伝わり、逆に参事官からわざわざ感謝を言う為に来た事にお礼を言われてしまいました。
 暫く、25年前のその時の状況などを話した後、1999年8月のトルコ北西部大震災の復興状況をお聞きし、復興支援の募金を申し出ましたら、トルコ政府としては義捐金の受付は既に終了していて、折角の申し出ですが、お受け出来ませんとの事でした。それではそれに関する事で寄付をする事が出来ないものかお聞きしましたら、兵庫県のある団体が活動をされている事を教えてくれました。具体的な名前は判らないという事でしたのでお時間を取らせた事へのお詫びとお礼をして大使館を後にしました。

 25年経ってやっとトルコの方に直接お礼が言えた瞬間でした。私は何と幸運なんだろう、こうやって直接トルコの方にお礼が言える日が有るとは考えてもいませんでした。
第11話につづく・・・

 
 



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<2012年6月30日 掲載>

第11話 『兵庫県国際交流協会“ひょうごトルコ友愛基金”へ寄付』 
文:沼田凖一さん

   在日トルコ共和国大使館から帰って、早速インターネットでトルコ北西部大震災被害の復興支援をしている団体を検索しましたところ、2つの団体が見つかりました。その中で私の目を引いたのは、兵庫県国際交流協会でした。早速連絡を取り活動内容を聞きました。そして、この協会は大震災で遺児や孤児になった子供を日本に招いて、1995年の阪神淡路大震災で被災した子供たちや同県の子供達と交流させているという事でした。

 この活動ならトルコ人に直接支援が出来るかも知れない、そう思ってその活動に寄付が出来るかどうか聞いたところ、寄付を受け付けるとの事でした。早速、寄付手続きをお願いしました。これまでの所、何から何まで順調そのものでした。日本とトルコの友好に関わっている人達は本当に親切で、私がこれ迄に出会った多くの人達とは何処か違う人達の様に感じました。

 これ迄の私は、いわゆる企業戦士と言われる、何が何でも仕事で成果を上げなければならない企業人でした。その目的を達成する為に大変多くの人達と関わって来ましたが、何時も周りの人達に負けない様に気を張り詰めて接して来た様に思います。でもこれからはそんな壁は必要ない、ありのままの自分で接して行けば良いのだと云う気持ちになり本当に嬉しくなりました。

 1999年9月16日トルコ北西部を襲った巨大地震は未曾有の被害を与えました。その被害者の多くは財産の全てを失ったり、家族が散々になったり、両親を失った遺児や孤児になってしまいました。この震災に対しては、世界各国から義損金が集まり復興や生活支援が行われました。しかし、両親を失った子供達にはそれだけでは十分では無い事は言うまでも有りません。心のケア―は絶対必要な事なのです。

 兵庫県国際交流協会はそこに重点を置いた活動をしているのです。この活動に自分が少しでも関わる事が出来たらという思いから「ひょうごトルコ友愛基金」に些少ですが寄付をさせて頂く事にしました。この遺児や孤児になったトルコの子供達を日本に招いて、交流する活動は隔年で行われていて、幸いこの年が丁度交流が行われる年で有ったのです。活動は兵庫県国際交流協会の細心の心使いで作られたプログラムで実施され大きな成果を上げて終了しました。交流会が行われた後すぐに協会から活動の状況を協会機関紙で知らせて下さいました。何と子供達の明るい笑顔でしょうか。素晴らしい活動だなあと、つくづく実感した瞬間でした。

 その後もあの笑顔を見られる事を思い描きながら寄付をさせて頂いています。あの子たちが大きくなってトルコと日本の友好の絆を更に強いものにしてくれる事でしょう。そして、何時の日にか、私と同じ様にトルコ人に助けられる日本人がいるかも知れない、日本人に助けられるトルコの人がいるかも知れない、と思いながら。
第12話につづく・・・

 
 



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<2012年8月11日 掲載>

第12話 『串本町へ恩返し』 
文:沼田凖一さん

 やっとトルコの人に直接感謝の気持ちを伝える事が出来ました。そこで今度はトルコが日本に対して強い親愛の気持ちを持つ様になった原点とも言える、エルトゥールル号遭難事故の時に献身的な救助活動をしてくれた串本町の人にお礼が言いたいと思い連絡を取ってみました。この頃丁度「ふるさと納税制度」が発足した時で、串本町では「串本町ふるさとのまちづくり応援寄付」制度をスタートさせたところでした。この制度に寄付をさせて頂ければ、トルコとの友好関係の促進に役立てて頂けるのではないか、学校の教育や文化の振興に何かしら役立てて頂けるのではないかと考え寄付を申し込みました。

 この寄付が、たまたま、「串本町ふるさとのまちづくり応援寄付」制度の第一号の寄付となった事から、地元で大きな話題になり新聞社からの取材申し込みが有りました。電話での取材という事になり、串本町役場の会議室に町長はじめ、各新聞社の記者の方が集まり取材が行われました。私は1985年当時の状況や心境を話しました。そして、エルトゥールル号遺品発掘調査の為に来日されていた団長のトゥファン・トゥランルさんにお礼を言わせて頂きました。この内容が翌日各新聞社から報道されました。私としては命の恩人への気持ちとして、少しばかり寄付させて頂いたのに、地元の人達からは逆に多くの感謝の言葉を戴きました。この様に互恵の精神の豊かな地域とトルコという国の間に強い繋がりが有った事で私は生きて日本に帰って来る事が出来たと改めて実感する事が出来ました。何というやさしい心を持った人達だろうか、私はただただ感激してしまいました。本当に、本当に有難う。この人達には私は一生感謝の気持ちを持ち続けて行きたい。

 そして、2010年、日本とトルコの友好関係が始まって120年という大きな節目の年にあたり、串本町は「日本・トルコ友好120周年記念事業」を企画されました。この事業は5年毎に行われていたとの事でした。この一大イベントの中に、トル航空によるテヘランからの日本人救出劇の時の体験談を話してもらう企画が検討された様でした。それに私をという話になって依頼が有りました。

 これは私にとっては、串本町の皆さんに直接お礼が言えるチャンスを戴いたと思いました。しかし、テヘランからトルコ航空で助けて頂いたのは、我々イラン戦友会のメンバー10名を含め215名だった訳で、私一人が参加するので有ればどうも趣旨とは違うのではないかと考えました。そこで、串本町の実行委員会にイラン戦友会のメンバーで出席出来る人を何人か出席させて頂けないかと相談させて頂いた所、実行委員会からはそれで良いとの御返事を戴きました。これで、215名とは言わないまでも、何人かの人が串本町の皆さんにお礼を言えるチャンスを頂けたと思い、串本町には参加の意を伝え準備に入らせて頂きました。しかし、私を除いては全員現役の会社員もしくは経営を担っている人で10名全員とはいかず、結果として3名が出席という事になり、2010年6月4日串本町文化センターに於いて感謝の言葉を言わせて頂きました。

 私は何と幸運なんだろう、215名が救出して頂き夫々に思いが有るだろうに、私はこうして串本町を訪れ、串本町の皆さんに直接感謝の気持ちを伝える事が出来た、この事は私の生涯にとってどれ程大きな意味を持っているものか計り知れない、そんな気持ちです。

 これで悔いを残さないで人生を終える事が出来る、そう思いました。
第13話につづく・・・


串本町の人たちに感謝の言葉を伝える沼田さん(中央)



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<2012年12月8日 掲載>

第13話 『NHK和歌山放送局、トルコ関係団体との出会い』 
文:沼田凖一さん

 話が少し前後する事になりますが、串本町「ふるさとのまちづくり支援寄付」への寄付によって串本町の新聞社各社から取材の依頼が有りました。その新聞報道から情報が広がりNHK和歌山放送局のF記者の目にも止まりました。
 早速F記者から取材の依頼が有りました。F記者は「2010年トルコにおける日本年」に向けて日本とトルコの友好の絆が如何にして育まれて来たかを、出来るだけ関係した人々の証言を映像にしたいと考えていた様でした。そんな折、私がイラン・イラク戦争に巻き込まれ、トルコ航空で救出された日本人の一人で、串本町に感謝の気持ちから寄付をした事を知り、このエルトゥールル号遭難事故からトルコ航空による日本人救出迄に関わって来た人々を通して、日本とトルコの友好の軌跡などを含め、未来へ向けた両国の姿を描きたいと私に取材を依頼して来たようでした。
 
取材前の打合せの中で、私からイラン戦友会の話をした所そのイラン戦友会の集まりの時にも取材出来ないかと言う事になり、たまたま、東京日比谷公園内のレストランでイラン戦友会と中近東事業部OBの懇親会の計画が有りましたのでその時にも取材してもらう事になった訳です。
 取材は最初に私一人だけで、翌日イラン戦友会・中近東事業部OB会の2回に分けて行われました。私一人でのインタビューでは、1985年3月19日の時の状況と心境をF記者が質問をし、それに私が答えて行くと言う形で行われました。私はその中で、当時の事を話している内に感情が込み上げて来て涙があふれ言葉を続ける事が出なくなってしまいました。この感情はきっと体験した者だけが持っている消し難い感情ではないでしょうか。暫く時間をおいて、ようやくその後のインタビューが続けられました。この時のインタビューの映像が、後に和歌山県や関西地区に放映された事から多くの皆さんにトルコが私達にして下さった愛情溢れる行動を知って頂く事が出来ました。翌日は在日トルコ共和国大使館での取材と、イラン戦友会・中近東事業部OBの懇親会の様子を取材してくれました。

 NHK和歌山放送局から話が有って間もなくして、トルコ関係団体の方(現在はこのショップの店長さん)からお声が掛り、お伺いさせて頂きました。私は日本にこの様な団体が有る等とは全く知りませんでした。この団体が日本に有ると言う事は、日本とトルコの友好関係が相当に浸透しているんだなぁと強く感じました。トルコ関係団体に伺わせて頂いたこの時も、テヘラン脱出当時の事を出来るだけ率直に話しをさせて頂きました。
 
この時の内容を早速トルコ関係団体の機関誌に載せて下さいました。その記事の一部を抜粋させて頂きます。『このように、およそ120年前に起きたエルトゥールル号遭難事故での大島の人々の愛情あふれる行為から始まり、今日までなお″善意の連鎖″は続いているのです。この一連の出来事から、我々の行動というのは目先の利益や結果を生むだけでなく、時代を超えて影響を与え得るということに気付きました。それならば、今この瞬間から自分の言動に責任を持つべきだろうなと、歴史の中で生きていることに感慨を覚えるのでした。』と記述されています。この事は今まで続いて来て、これからも未来永劫続いて行くのだという事、続けて行かなければならない事だと思いました。
 私はその渦中にある一人として当時体験した事、心境を後世に語り継いでいく責任が有るのだとの気持ちを強くした出会いでした。

私は助けられた215人の日本人の中でも、特別素晴らしい出会いをさせて頂いたものだとつくづく思います。
第14話につづく・・・


イラン戦友会の集まり



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<2013年5月11日 掲載>

第14話 『25年後再び天国・イスタンブールを訪れる』 
文:沼田凖一さん

 串本町での2010年6月3日から5日の「日本トルコ友好120周年事業」に出席させて頂いて、帰宅して間もなく、和歌山県海南市の作曲家・指揮者の向山精二さんから連絡がありました。向山さんは和歌山県の「北六班の歌」「幻想組曲粟嶋神社」「高野山の四季」「紀伊の国交響組曲」等を作詞・作曲された方で和歌山県、関西地区に於いてコンサートを開催している方だと言う事でした。向山さんは最近になって、エルトゥールル号事故の事を知り、これはすごい事だ、和歌山県の先人がした素晴らしい人間愛の行動を音楽にしたいと思い立ち、「紀伊の国交響組曲第四楽章」に「エルトゥールル号の乗員に捧げる曲」「友情・エルトゥールル号の軌跡」を追加作詞作曲し、関西地区を中心にコンサートを開いていました。エルトゥールル号の出来事について勉強するうちに、このエルトゥールル号の事故が日本・トルコ両国を深く結びつける事になり、それから95年後の1985年3月にトルコ航空によるテヘランからの日本人救出劇が有った事を知りました。これが両国の「友情」を更に深めた事を知り、この事を音楽にして日本とトルコの友情を広く伝えて行きたいと考え「友情」その1「九死に一生」を作詞・作曲したそうです。

 そんな折、たまたま私が串本町の「日本・トルコ友好120周年事業」に参加し、私達がトルコ航空で助けられたのは、エルトゥールル号の事故の時、串本町大島の人達が中心に献身的な救助活動をしてくれたお陰でしたので会場においでの皆さんにお礼を言わせて頂きました。その事が後日、和歌山県で報道されましたので、向山さんは私がトルコ航空でテヘランから助けられた日本人の一人である事を知り、コンサートの休憩時間に音楽の好評と当時の事を話してもらえないかとの依頼が有りました。私としては、トルコが私達日本人にして下さった家族愛にも勝るとも劣らない友情で助けてくれた事を多くの人に知って頂けるので有ればとの思いからこの申し出を受けさせて頂きました。
 
 このコンサートは大阪・ザ・シンフォニーホールを皮切りに東京・サントリーホール、トルコ・メルシン、アンカラ、イスタンブール・アヤイリニ教会で行われました。私はこのうちの東京・サントリーホールとトルコ・イスタンブール・アヤイリニ教会のコンサートに参加させて頂きました。

 イスタンブールへの訪問は実に私がトルコ航空で助けて頂いてから25年経った2010年7月27日でした。向山さんのお陰でトルコへのお礼をさせて頂く機会を頂いた訳です。会場には1200人を超えるトルコの方が来られている中でお礼を述べさせて頂きました。こんな幸運な事は滅多に有るものでは有りません。更にサプライズとして、1985年3月19日私達を助ける為に来てくれたトルコ航空の機長だったオルハン・スヨルジュさん、機関長のコライ・ギョクベルクさん、キャビンアテンダントのアイシェ・オザルプさん、デニス・ジャンスズさん、ナーザン・アキュンレルさん、そして、森永さんが壇上にお上がりになり私と握手をしてくれたのです。余りの突然の事で私の頭の中は真っ白になってしまいました。

 翌7月28日には、在イスタンブール日本国総領事公邸でオルハンスヨルジュ元機長他何名かの元トルコ航空の方々とお会い出来る事になっていましたので、まさかコンサート会場でお会いする等とは夢にも考えていませんでした。コンサートの翌日には予定通り日本国総領事公邸で元トルコ航空関係者の方々、森永さんとお会しました。正に私達の命の恩人達です。この夢の再会は、在イスタンブール日本国総領事館総領事と副領事で、私の様な者の為に公務でお忙しい中、色々奔走して開催して下さいました。何とお礼をしたら良いか判りません。私はこんなにも多くの皆さんに助けて頂いて、命の恩人の方々にお礼を言える場を作って頂いたのです。この日は日本に帰国する日です、ここで感じたこの思いをしっかりと心に刻み決して忘れない様にしなければいけないそんな思いを強くしたイスタンブール再訪問でした。

 皆さん本当に有難うございました。
第15話につづく・・・


在イスタンブール日本国総領事公邸で



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<2013年8月31日 掲載>

第15話 『日本・トルコ友好の絆を発展させる一翼を担いたい』 
文:沼田凖一さん

 2010年以後、日本とトルコの交流がこれまでになく頻繁に行われました。私もその交流に入らせていただきましたので、1985年の「テヘランからのトルコ航空による日本人救出」の出来事を出来るだけ多くの人々に語り伝えよう、その事によって、日本とトルコの友好の絆を発展させる一翼を担いたいと思う様になりました。それを実現する為には、今、自分の周りにいる人達だけでは無く広く目を向けて行かなければいけないとの思いに至りました。そこで、日本とトルコの友好の活動をされている団体などとの出会いを増やしたいと思い、幅広くコンタクトする事を始めた結果、KC会、日本トルコ友情コンサート実行委員会、トルコ航空日本支社、早稲田トルコ・ホリックサークル、クリエーターズユニオン、ユヌス・エムレトルコ文化センターなど大変多くの方々との出会いが有りました。

この多くの出会いの中でも、早稲田大学トルコ・ホリックサークルの皆さんからは2011年2月に体験談を話す機会をいただいたことから、5月には「早稲田大学トルコデー」で体験談を話させていただきました。
そして、2011年11月3日から6日には、10月23日にトルコ東部ヴァン県で発生した大地震で被災された人達の為にと、早稲田大学トルコ・ホリックサークルの募金活動に一緒に入らせていただきました。
それと前後して、日本・トルコファン倶楽部など多くの日本・トルコ友好の活動をされている方々との出会いが有りました。

私は、2008年に初めて日本とトルコの友好の関係の成り立ちを知る迄は、トルコの隣国のイランに十数回出張したにもかかわらず、トルコに関しての認識は、イランには結構多くのトルコ人が仕事をする為に来ている、という位で、それ以上の事を知る機会は有りませんでした。2008年に、エルトゥールル号の遭難事故から始まった、日本・トルコ友好の歴史を知った事から、在日トルコ大使館、串本町、兵庫県国際交流協会、トルコ文化センター、NHK和歌山放送局、和歌山県の向山さんとも出会い、そして、2011年9月、遂に日本・トルコ協会の会員にさせていただきました。この様に、日本とトルコの友好関係向上の活動をしている団体と出会い、本当に多くの日本人はトルコが好きでトルコの事を広めたいと活動している事を知りました。 この様な人達の心、長年に亘る行動が私の命を助けてくれた訳で言わばこの方達もまた私の命の恩人なのです。ですから、何とか恩返しが出来る様にしたいと思っています。

また、これ迄に交流をさせていただいている多くのグループに加え新たに、大島小学校、数社の新聞社、PHP研究所、経団連若手・中堅層勉強会、牧門堂、東奥日報社、富士通ファミリ会などますます交流の輪が広がって来ています。この出会いをさせていただいた多くの人達と日本トルコ友好の絆を広げて行きたいものです。更には、イラン戦友会の皆と協力して、トルコ航空で助けられた日本人が手を結び、活動が出来たらどんなに嬉しいか判りません。
第16話につづく・・・


トルコホリックサークルで体験談を話す沼田さん



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<2014年1月26日 掲載>

第16話 『自分に何が出来るかを探る旅』 
文:沼田凖一さん

 2010年の日本・トルコ友好120周年から2年が過ぎて2012年、どうしても、自らの力で直接トルコに恩返ししたい、そう思って自分を振り返ってみると、何にもない自分に気付かされました。でも何かないか、そうだ私には唯一、41年間仕事で培ったプレス金型関係技術者としての経験が有る。これをトルコに役立てる事が出来ないか。可能性が有るか無いかは、トルコに行って自分の目で確認する事がどうしても必要だとの思いに至りました。ならば、何としてもトルコの自動車会社とコンタクトを取らなければいけない。でも、私がこれ迄に出会った人達の中でトルコの自動車会社と関係の有る人はいませんでした。

そんなある時、運良く以前から知人を通してお知り合いの、トルコ・レストランのオーナーにお会いする機会が有り、その話をしましたら、トルコ大使館の商務部参事官と大変親しいという事で、その方を薦めて頂きました。早速、思い切って在日トルコ共和国大使館に相談させていただきました。そうしましたところ、トルコ大使館商務部参事官が直ぐに相談に乗ってくれるという事になりました。

トルコ大使館を訪問し具体的な計画を相談させていただきました。この時点で私としては、もしトルコを訪問する事が出来るので有れば、テヘランからトルコ航空で救出してもらった1985年3月19日と同じ日の、3月19日に、日本を発ちトルコ航空でイスタンブールに行く事だけはどうしても実現したいと思っていました。あとは現地の受け入れてくれる会社の都合で日程、内容を決めて頂く事でトルコ大使館に調整して頂きました。

お陰で、計画通り3月19日成田を出発し、その日の夕方イスタンブールに到着です。27年前は地獄の淵から、「九死に一生」を得て生還した天国、イスタンブールです。改めてあの日の想いをひしひしと感じながら、ああ、三度イスタンブールの地に立つ事が出来ました。

イスタンブール・アタチュルク空港のロビーに出ましたら、出迎えの方が待っていてくれました。トルコ・ウルダ輸出業者協会が手配して下さったという事でした。何というお心遣いでしょうか。この日はイスタンブールに宿泊です。

翌日朝、トルコ・ウルダ輸出業者協会が手配して下さった方がホテルまで迎えに来てくれて、そのまま車でフェリーを使いブルサに連れて行ってくれました。何から何までかゆいところに手が届く様な、まさにあの、「トルコ航空によるテヘランからの日本人救出」の時の心くばりを彷彿とさせるものでした。

そして、更に驚く事に、トルコ大使館が調整をして下さったトルコの自動車部品会社は、私が全くのプライベートでの企業訪問であるにもかかわらず、企業機密に当たる部署の隅から隅まで見せてくれ、なお且つ関係協力会社に連れて行ってくれて、そこも隅から隅まで見せて下さいました。

この時強く感じたのは、一人の人間の力は何と小さい事かということ、そして何かをしようとするとこんなにも多くの方々に支えていただいてしまうという事でした。これで本当に恩返しをする事になるのだろうか。

でも、ここ迄来てしまった以上立ち止まっている訳には行きません。今回、多くの方のお世話をいただき、トルコを訪問させてもらったのだから、私に出来る恩返しは、私が経験したプレス金型技術をフルに活用して、トルコの部品メーカーが持っている技術を如何にレベルUPし、ヨーロッパやアジアと競争出来るレベルになれるか、その為の提案をさせてもらう事だと思いました。その事が、テヘランからトルコ航空で救出してくれたトルコ、そして、今回また私の為にほねをおって下さった、トルコ大使館、トルコ・ウルダ輸出業者協会、部品メーカー、支えて下さった多くの方へのご厚意にお応えする事になると信じて・・・。


トルコの自動車部品メーカーのスタッフと沼田さん


<<お知らせ>>沼田さんの体験談は一旦この第16話でお休みとなります。ただ、沼田さんの日土友好活動は現在も続いていますので、また第17話からの連載がスタートできることを願っています。ご愛読ありがとうございました。



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高星輝次さんによる 『日本・トルコ友情物語〜高星さん編』 も連載中!!
まったく同じ体験をしたお二人が同じテーマで文章を綴ったとき、そこに何か違いが見えるのか、
抱いた気持ちは一緒だったのか!?そんな部分にも注目しつつ、ぜひ読み比べてみて下さい。
 
『イラン・イラク戦争 奇跡の救出劇 〜日本・トルコ友情物語〜高星さん編』は → こちら
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